佐賀市の大財公園は曰くつきの場所として知られている。
何が原因でそのような噂が立っているのか?
それなりの理由がありそうだ。それでは、歴史を振り返ってみよう。
大財という地名について
応永四年(一三九七)の加賀守進の打渡状(実相院文書)に『肥前国佐嘉下庄河上宮御免田坪付事』として『大財内(字溝越)壱町』とあり、佐嘉下庄の大財に河上宮の免田があったことがわかる。
また大永四年(一五二四)三月二十八日千葉興常が竜造寺民部大輔にあてた安堵状(竜造寺文書)に、『佐賀郡大宝四十町』などを安堵する記事がある。
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 大財村 197頁より
大財は『おおたから』と読む。上記引用文から歴史のある地名だということが分かる。
大財の由来については残念ながら分からなかった。
むかし、大富豪が住んでいたとか、宝物庫があったとか、そんな感じかな?
知らんけど。
大財公園について
大財公園の片隅には鎮魂碑がある。誰のための鎮魂碑なのか?
大財火葬場について
鎮魂碑の裏には『佐賀市火葬場跡 昭和五十五年七月吉日建之』と刻まれていた。
現在の大財公園の場所に何があったのか、明治から昭和後期の古地図を並べ確認。
1917年(大正6年)修正、1931年(昭和6年)鉄補:植生・竹林
1948.10.31(昭23年):建物有
1962.5.13(昭和37年):建物有
1975.1.21(昭和50年):建物有
1980.10.2(昭和55年):更地
明治、大正期は竹林だったようだ。
『1948.10.31(昭23年)~1975.1.21(昭和50年)』の空中写真には建物がある。
大財四丁目所在の火葬場は、昭和四年九月に開設(重油三基、重油石炭兼用三基)されたもので、
佐賀市史 第5巻 (現代編) 福祉と民生 707頁より
佐賀市史に写真付きで大財火葬場の紹介がある。当時の写真が気になる方は図書館で調べてみてほしい。1929年(昭和4)に開業した大財火葬場は激しい老朽化と付近の市街化により移転が検討され、1980年(昭和55)に竣工した金立町の火葬場に役目を譲った。
古戦場の噂について
1995年(平成7)8月21日の佐賀新聞に『大財鎮魂まつり』という記事を発見した。
写真の石碑が『戦死者を祀る碑』かもしれない。碑は摩耗していて文字は全く読めなかった。
戸次伯耆守鑑連・吉弘左近大夫鑑理を両大将にて、水上春日の陣を発し、神代勢を案内役とし、其道々を放火せしめ、長瀬御領蠣久へ相働く。神代の手の者は、既に龍造寺の城近く、神野・三溝・大財村まで討ち入り、所々に火を懸け焼払ふ。時に城兵に副島式部少輔・百武志摩守・田中上総介・秀島源兵衛幷に秀島が与力に合満民部以下出向ひ、大財村にて神代勢と相戦ひ、数多討取りて追払ふ。
北肥戦誌 巻之十八 豊後勢龍造寺を攻むる事より
1569年(永禄12)に大財村で龍造寺勢と大友勢が争ったという記述が残されている。いつを起点にして”約420年”と言っているのかわからないが、恐らくこの戦いのことを指しているのではないかと思う。
刑場跡の噂について
大財公園のすぐ南に清心院という真言宗の寺がある。
永正年間(1504~1521年)に龍造寺胤家の館(大財端城)がこの場所にあり、そこに清心院を建立したとされている。
開山は英彦山で修業をしていた胤家の息子・斎亮と伝わる。
慶長年間(1596~1615年)、鍋島直茂・勝茂によって佐賀城が築かれる。(正確に言うと龍造寺氏の村中城を改修・改築)
慶長年間(一五九六~一六一五)の佐賀城下絵図には、城下の北東に外堀(十間堀川)を隔てて寺院が描かれている。城の鬼門に鎮守のため設けられた清心院である。
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 大財村 197頁より
佐賀城下絵図を見ると北東部に水堀に囲まれる突出した部分が見える。ここに清心院があり、出城としての役割を持つ重要な場所だった。
さて、最後に処刑場の実在について。
確証が見つからなかったので処刑場の有無について迂闊に答えられない。
『ちょっと城から近すぎない?』『ご先祖所縁の寺のすぐそばで処刑する?不謹慎じゃない?』とか思うけれども現代とは感覚が違うだろうから何とも言えない。
もしご存知の方がいらっしゃいましたらご教授願いたい。
終わりに
実際に幽霊が出るかどうかは知らないが、これだけ条件が揃っていると心霊スポットの噂が立つのも理解できなくはない。
ただ、住宅街でひと気のある場所なので恐怖を感じるような雰囲気は皆無であった。
以上。
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