坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。
幽霊坂は東京中に多く七ヵ所ほどもある。現地案内板より
三田の幽霊坂の案内。
引用文中の”有礼坂”は明治初期に教育の重要性を説いた初代文部大臣の森有礼の事で、坂の近くに屋敷を構えていた理由から命名された可能性を挙げている。
森有礼は一流の洋学者を集め、啓蒙活動を目的とした学術団体・明六社を結成した。
鹿児島のローカル紙『南日本新聞』によると急進的な教育論を唱える森有礼は”明六(あけむつ)の幽霊”と揶揄されることもあったと記されていた。
幽霊坂の場所
芝高輪辺絵図(1849~1862年刊)を切り抜き引用
土岐美濃守と一柳兵部少輔を繋ぐ道が幽霊坂だと思われる。
周囲には無数の寺々が密集しているため、夜はさぞかし不気味な雰囲気だったのであろう。
芝高輪辺絵図に幽霊坂の名は見当たらなかったが周辺の聖坂や潮見坂の名前は見えた。
幽霊坂と不良少年
1921年(大正10)7月26日の読売新聞朝刊に幽霊坂に纏わる興味深い事件を発見した。
著作権があるので、そのままの引用は出来かねるが、要約して紹介しようかと思う。
表題は”幽靈坂の三本足お化”。
幽霊坂に三本足のお化けが出ると大評判になり毎晩のように見物人が押し掛けた。
騒ぎになりすぎたため警察も放っておけず、交通整理の傍らお化けの正体を明らかにしようとしたところ、19歳の不良少年が白い浴衣を被り、山門の上から通行人を脅かしていたと判明した。
少年は捕まったため、これで当分の間は幽霊は出ないだろうと警官は笑っていた。
騒ぎになりすぎたため警察も放っておけず、交通整理の傍らお化けの正体を明らかにしようとしたところ、19歳の不良少年が白い浴衣を被り、山門の上から通行人を脅かしていたと判明した。
少年は捕まったため、これで当分の間は幽霊は出ないだろうと警官は笑っていた。
いちのまる
巷の心霊スポットも案外こんな感じで噂が流れているのかもね。
終わりに
凄惨な事件や事故が起こったために、曰く付きの場所と風聞されるに至ったのではなく、単純に墓に挟まれる立地がそうさせている場所であった。
心霊スポットとしては弱い感じもするが、それに附属する歴史や出来事が大変興味深く、楽しく記事を書く事が出来た。
東京都には7~8の幽霊坂があるそうなので、時間を見つけて散策してみようかと思っている。
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