幕末期。戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は明治政府軍に敗北します。
大阪城からこっそりと脱出した15代将軍・徳川慶喜は江戸城で自らの進退を煩悶する日々を送りました。
明治政府軍は徳川慶喜追討令を発し、東征軍を派遣。そして、敵の圧力に止む終えず恭順の意を示す慶喜公。
薩摩や朝廷と所縁ある天璋院や静寛院宮、北白川宮能久親王などを通じ助命および徳川家存続の嘆願を出すものの完全な成功には及びませんでした。
『江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地』案内板より引用
幕府方は山岡鉄舟を駿府にいる西郷隆盛の下に派遣。内交渉を行います。
その後、江戸にて西郷隆盛と勝海舟の交渉が二度行われました。
二度目の交渉地が『江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地』の碑がある江戸薩摩屋敷跡(現・三菱自動車工業 本社ショールーム)だったと伝わります。(諸説あり)
『江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地』案内板より引用
会談は成功に終わり、結果『江戸城無血開城』がなります。
もし決裂していたら……。
新政府軍はいつでも江戸を攻撃できる状態にあったし、勝海舟は攻め込まれたら江戸の焦土作戦を実行する予定だったとされています。そうなったら間違いなく江戸の町は火の海に飲まれていたでしょう。
この会談により江戸の街の崩壊は免れましたが、明治政府と旧幕府の戦いは続きます。
それらの戦いについては各戦場に訪問した際に紹介出来ればと思います。
終わりに
慶應四年三月十四日
此地薩摩邸に於て西郷勝兩雄會見し江戸開城の圓滿解決を図り百萬の民を戰火より救ひたるは其の功誠に大なり平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
昭和二十九年四月三日 本芝町會 本芝町會十五周年記念建之
『江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地』より
『江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地』の碑の裏に書かれている文です。1954年(昭和29)に建てられた割にはキレイな石碑ですね。

ときどき、だれかが磨いているのかな?
おしまい!
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