園ハ野田町ノ一個人ガ此景勝ノ地ヲ公開セントシ、多年の努力酬ラレ、縣民ノ賛成ヲ得テ帝都近郊ノ名園トナル、廣大ニシテ曲折セル池、長蛇ノ如キ杉森に圍マレ、大小二丘ニ多數ノ櫻樹桃林ヲ添ヘ、紅白相妍ヒ、黄色ノ芝生ハ岡ヲ被ヒ、綠林中ニ寺院アリ、茶亭アリ、池ニハ ボート 浮ブ
苔石小稿 野田清水公園より
清水公園について書かれている古い文献を発見したので、著者の栗田苔石さんについて何も存じ上げないけれども、一先ず紹介することにした。概ね今と変わらない景色が想像出来る。
“野田町ノ一個人”は野田醤油(後のキッコーマン)の初代社長・茂木七郎右衛門の父、茂木柏衛のこと。1894年(明治27)、茂木柏衛は金乗院の林地を借入し聚楽園を開設、後に地域の名前に合わせて清水公園と呼ばれるようになった。
1929年(昭和4)には、林学者・本多静六の設計によって整備や拡張が行われ現在の規模に至る。
本多静六は『公園の父』の二つ名を持つ偉人で、ここでは深く紹介しないが日本全国の数多くの公園の設計に携わっている。wikipediaに関わった公園の一覧があるので気になる方は一度検索してみて欲しい。
清水公園は初期の頃から現在に至るまで、キッコーマンに関わりの深い千秋社という企業によって管理・運営される地元に根付いた歴史のある公園なのだ。
清水公園へのアクセス
東武野田線・清水公園駅から歩いて5分~10分。駐車場が完備されているので自動車で問題ない。ただ、時期によっては込み合うかもしれないので注意が必要。
清水公園には心霊スポットの噂があるみたいだけど…。
訪問当日、汗が止まらぬ程の酷暑であった。
水上アスレチックでは夏休みを満喫する多くの子供たちが暑さなど忘れて思い出作りに励んでいる。
その中に20歳前後の大人グループが混ざり一緒になって戯れていたのだが、ターザンロープで四苦八苦しているご様子であった。
男は決心してロープに飛び乗るが…。
体重を支え切れなかったのであろうか、ずるりと手を滑らせ盛大な水飛沫を上げた。
呆然として池に浮かぶ男の姿が何とも微笑ましかった。
園内他の場所にもチラホラ観光客が見えて割と賑わしい公園だと感じたけれど、心霊スポットの噂があるという事は根拠となる事件や事故の発生、或いは歴史的に曰くのある土地だったりするのだろうか?
清水公園と心霊を関連付けているサイトを閲覧すると、その根拠に『園内での自殺』と『処刑場跡』を挙げている。
一先ず、データベースサービスで過去の新聞を調べてみたが、それらしき情報は見つからなかった。
自殺に関しては表沙汰にならないケースが多々あるので、調べても分からない場合が多い。
すると地元の方の情報を頼りにするしかない訳だけれど、情報の詳細が提示されることが殆どないため疑いなく信じてよいものか悩ましい。
名所と呼ばれる程のスポットであれば、幾らでも証拠が出てくるのだが…。
処刑場に関してはどうだろうか?
この土地は1398年(応永5)に開山したと伝わる金乗院の敷地であった。
寺院の敷地内に処刑場があったとは考えにくいか。寺院の近くならまだしも。
清水公園と心霊を結び付けるような情報をお持ちの方がいらしたら是非教えていただきたいです。できれば情報源を添えていただいて。
終わりに
公園の片隅に富士講と関係のある小高い丘と石碑がある。これを浅間塚という。
浅間塚は富士山に直接登ることの出来ない女性や子供、足腰の悪い人々の為に富士山を模した塚を築き、そこに石碑や社を置いて信仰の対象としたもの。
富士講の指導者として活躍した人物の日記に『1808年(文化5)1月20日、富士講の用地を買取る相談をした』『金乗院に寄り、富士講を目的として土地を買取った』とあるそうだ。(原文は未読。ニュアンスだけでも伝わればよいと要約した)
石碑の『参明藤開山』は富士山の意味であり、1876年(明治9)に建立されている。
しっかりと整備された一画なのだが、木々で覆われているため昼間でも薄暗く、やや不気味な感じがする。もしかすると富士講にまつわる神々が今でも鎮座しているのかもしれない。
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