出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1947/08/26(昭22)撮影)
鎌倉は海と三方の低山に囲まれた天然の要害であったが、その反面外部への輸送や往来は困難を極めた。
そのため山々の尾根や岩壁を人力で穿ち、少しでも交通の難所を緩和させる必要があった。
7本の切通しや坂が通され、それらは後世に鎌倉七口、または鎌倉七切通と総称されるようになる。
・極楽寺坂切通
・大仏切通(国指定史跡)
・化粧坂(国指定史跡)
・亀ヶ谷坂(国指定史跡)
・巨福呂坂(国指定史跡)
・朝夷奈切通(国指定史跡)
・名越切通(国指定史跡)
切通しは狭く開かれ周囲には平場や切岸などを配置し、内外の防衛を意識した造りを為していた。
今回、訪問した名越切通もその一つである。
空中写真の赤丸部分に当たり、現在切通しの下には小坪トンネル群が通っている。
名越切通へのアクセス
小坪トンネル群とほぼ同じ場所にあるので引用する。
JR鎌倉駅、逗子駅から徒歩25~30分程の距離にある。
駅からバスも出ているが名越経由の運行は極めて少ないため期待は出来ない。
自家用車でも行けないことは無いが交通量の多い場所なので駐車に困るかも。
時間が許されるなら鎌倉駅から各所を観光しつつ逗子方面に向かうコースをおすすめしたい。
しんれい新聞 小坪トンネルより
名越切通の風景
名越切通は心霊スポットとして紹介されることもある。
小坪トンネル群と同様で火葬場と中世の大墳墓(まんだら堂やぐら群)の存在が理由であろうから詳しくは述べない。
気になる方は序文に張ったリンクと以下のリンクから確認していただきたい。
現地の案内板によると名越切通が初めて史料に登場するのは吾妻鏡とある。
どのような文章なのか気になったので以下に引用する。
八月十八日 早旦武州爲奉幣于江嶋明神出給之處 前濱有死人 是被殺害者也 不遂神拝 直參御所給 即召評定衆 被經沙汰 先令御家人等 武藏大路 西濱 名越坂 大倉 横大路已下 固方々途路 有犯科者否 可搜求其内家之由 被仰下之間 諸人奔走 而名越邊 或男洗直垂袖 其滴血也 成恠 岩手左衛門尉生虜之 相具參御所 推問之刻 所犯之條無所遁 是博奕人也 仍殊可停止其業之由 下知云々
吾妻鏡 第29巻より
1233年(天福1)8月18日
早朝、北條泰時さまが江島明神に奉幣のため出られたところ、前浜に死人があった。これは殺害された者である。
御参りを取り止め御所へ行き評定衆を呼び寄せ会議を開いた。
まず、御家人らに『武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路』などの路を固く閉じるよう命じ、その範囲内の家に殺人犯がいないか捜索させるため諸人を奔走させた。
名越の辺りで服の袖を洗う男があり、血が滴っていた。
怪しいと思った岩手左衛門尉がこれを生け捕りにし御所へ連行し問い詰めると、犯行が明らかとなり言い逃れは出来なかった。
これは博徒であり、直ちにその生業をやめるようにと命令が下された。
文中の名越坂が名越切通の事で、犯人を外部へ逃さないように封鎖した場所、血の付いた服を洗う犯人を捕らえた場所として描かれている。
このように有事の際には各切通を封鎖し検問を敷いたのである。
しかし犯人は博打を咎められただけで、これ以上の罰は受けなかったのだろうか?もしかしたら殺された側に非があったのかもしれない。
終わりに
名越切通の大町口に馬頭観音(?)と首の無い地蔵尊が安置されていた。切通が現役の時代からある道祖神であろうか?
昔は首の無い石仏を見るとゾッとしましたけど、そこら中にあって何とも思わなくなりました。こうなってしまった理由はとても気になりますが。
小学生の時以来に鎌倉へ赴いたのであるが、当時の記憶は全く残っていないし、今回は今回でかなり偏好な行旅になってしまったので、次回は純粋に鎌倉の歴史を巡る旅をしたいと考えている。
近頃は常に時間に追われている感じなので、出来ればまったりと2泊3日くらいして鎌倉を満喫したいものである。
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