去程ニ髙重走廻テ早々御自害候へ髙重先ヲ仕テ手本ニ見セ進セ候ハント云儘ニ胴計殘タル鎧脱テ抛ステヽ御前ニ有ケル盃ヲ以テ舍弟ノ新右衛門ニ酌ヲ取セ三度傾テ攝津刑部大夫入道準カ前ニ置キ思指申ソ是ヲ肴ニシ給ヘトテ左ノ小脇ニ刀ヲ突立テ右ノ傍腹ニテ切目長ク掻破テ中ナル腸手縷出シテ道準カ前ニソ伏タリケル
道準盃ヲ取テアワレ肴ヤ何ナル下戸ナリ共此ヲノマヌ者非シト戯テ其盃ヲ半分計呑殘テ諏訪入道カ前ニ指置同ク腹切テ死ニケリ
諏訪入道直性其盃ヲ以テ心閑ニ三度傾テ相模入道殿ノ前ニ指置テ若者共隨分藝ヲ盡シテ被振舞候ニ年老ナレハトテ爭カ候ヘキ今ヨリ後ハ皆是ヲ送肴ニ仕ヘシトテ腹十文字ニ掻切テ其刀ヲ拔テ入道殿ノ前ニ指置タリ
長崎入道圓喜ハ是マテモ猶相模入道ノ御事ヲ何奈ト思タル氣色ニテ腹ヲモ未切ケルカ長崎新右衛門今年十五ニ成ケルカ祖父ノ前に畏テ父祖ノ名ヲ呈スヲ以テ子孫ノ孝行トスル事ニテ候ナレバ佛神三寶モ定テ御免コソ候ハンスラントテ年老殘タル祖父ノ圓喜カ肱ノカヽリヲ二刀差テ其刀ニテ己カ腹ヲ掻切テ祖父ヲ取テ引伏セテ其上ニ重テソ臥タリケル
小冠者ニ義ヲ進メラレテ相模入道モ腹切給へハ城入道續テ腹ヲソ切タリケル
是ヲ見テ堂上ニ座ヲ列タル一門他家ノ人々雪ノ如クナル膚ヲ推膚脱々々々腹ヲ切人モアリ自頭ヲ掻落ス人モアリ思々ノ最期ノ體殊ニ由々敷ソミヘタリシ
其外ノ人々ニハ金沢太夫入道崇顕、佐介近江前司宗直、甘名宇駿河守宗顕、子息駿河左近太夫将監時顕、小町中務太輔朝実、常葉駿河守範貞、名越土佐前司時元、摂津形部大輔入道、伊具越前々司宗有、城加賀前司師顕、秋田城介師時、城越前守有時、南部右馬頭茂時、陸奥右馬助家時、相摸右馬助高基、武蔵左近大夫将監時名、陸奥左近将監時英、桜田治部太輔貞国、江馬遠江守公篤、阿曾弾正少弼治時、苅田式部大夫篤時、遠江兵庫助顕勝、備前左近大夫将監政雄、坂上遠江守貞朝、陸奥式部太輔高朝、城介高量、同式部大夫顕高、同美濃守高茂、秋田城介入道延明、明石長門介入道忍阿、長崎三郎左衛門入道思元、隅田次郎左衛門、摂津宮内大輔高親、同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田、赤橋、常葉、佐介ノ人々四十六人
総シテ其門葉タル人二百八十三人我先ニト腹切テ屋形ニ火ヲ懸タレハ猛炎昌ニ燃上リ黒天ヲ掠タリ
庭上門前ニ並居タリケル兵共是ヲ見テ或ハ自腹掻切テ炎ノ中ヘ飛入モアリ或ハ父子兄弟差違ヘ臥モアリ
血ハ流テ大地ニ溢レ漫々トシテ洪河ノ如クナレハ尸ハ行路ニ横テ累々タル郊原ノ如シ死骸ハ焼テ見ヘネ共後ニ名字ヲ尋ヌレハ此一所ニテ死スル者総テ八百七十餘人也
此外門葉恩顧ノ者僧俗男女ヲ不云聞傳々々泉下ニ恩ヲ報ル入世上ニ促悲ヲ者遠國ノ事ハイサ不知鎌倉中ヲ考ルニ総テ六千餘人也
嗚呼此日何ナル日そや
元弘三年五月二十二日ト申ニ平家九代ノ繁昌一時ニ滅亡シテ源氏多年ノ蟄懐一朝ニ開ル事ヲ得タリ
太平記 巻第十 髙時幷一門以下於東勝寺自害事より
北条高時、併せ一門以下、東勝寺に於いて自害の事
去るほどに長崎高重が走り回り『早々に御自害なされ、私が先にして手本を見せて進ぜましょう』と云う儘に、胴に残る鎧を脱ぎ棄てて御前にある盃を持ち舍弟の新右衛門に酌を取らせ、3度傾けて摂津親鑑の前に置き、杯に酒を注ぎ『これを肴にし給え』と左の小脇に刀を突っ立て右の脇腹にて切れ目を長く掻き破って中の腸を出して摂津親鑑の前に伏した。
摂津親鑑は盃を取って『なんという肴だ、どんな下戸であってもこれを飲まない者はあり得ない』と戯れて、その盃を半分飲み残して諏訪直性の前に置き、同じく腹を切って死んだ。
諏訪直性はその盃をもって心静かに3度傾けて北条高時の前に置いて『若者たちは隨分と芸を尽くして振舞ったのだから年寄りだってそうしないでいられようか。今よりあとは皆これを肴にしなさい』と腹を十文字に掻っ切ってその刀を北条高時の前に差し置いた。
長崎円喜はこれまでもなお北条高時の進退を気にしている様子で、腹をまだ切っていなかった。長崎新右衛門は今年15歳になるが、祖父の前に畏まって『父祖の名を呈するのをもって子孫の孝行だということであるならば、仏神三宝も定めて御免すべきございましょう。』と言い放って年老い未だ生き残っている祖父の円喜の肱のかかりを二刀刺して、その刀で自分の腹を掻っ切り祖父を引き伏せてその上に重なり臥した。
この若者に義を見せつけられ、北条高時も腹を切り、安達時顕も続いて腹を切った。
これを見て堂上の一門・家の人々、雪のようになる肌を、推膚脱々々々(?)、腹を切る人もあり、自ら頭を掻き落とす人もあり、思い思いの最期の身体であるから特に立派(?)に見えるのであった。
(中略)
総じてその身内の人283人、我先にと腹を切って屋形に火をかければ激しい炎が燃え上がり黒煙が空を掠めた。
庭上、門前に並んでいた兵士たちはこれを見て、腹を掻っ切って炎の中に飛び入る者、父子兄弟で刺し違え重なり臥せる者もあった。
血は流れ大地に溢れて漫々と大河のようになれば、亡骸行路に横たわる亡骸が連ね続く郊原のようだった。死骸は焼かれて見えないけれど名字を尋ねればここ一所にて死んだ者、総じて870余人である。
この他身内や恩顧の者、僧俗、男女を言わず、死人に恩を報いる人、世間に悲しみを促す者、遠国のことはいざ知らず、鎌倉中を考えるに総じて6000余人。
嗚呼、なんという日だろうか。
元弘3年(1333)5月22日と申すに、平家9代の繁昌が一時にして滅亡して、源氏の多年の不満が一朝にして開くことを得た。
鎌倉幕府の滅亡についてきっちりと説明し始めると冗長になってしまうだろうし、上手く説明出来るかも怪しいので割愛します。
訳はかなり適当なので『何となくこんな感じだったんだなぁ』くらいで読み流してください!
今後、太平記の現代語訳文に触れる機会があればリライトしてより正確な情報を載せられればと思っております。
冒頭の写真は鎌倉幕府の最期の地・東勝寺跡。ここより更に山寄りに『腹切りやぐら』と呼ばれる場所がある。
腹切りやぐらの場所
JR鎌倉駅から凡そ1km。徒歩で15分程。
東勝橋の袂に有料駐車場があるので自動車でも近場まで行ける。
腹切りやぐらについて
この場合の『やぐら』は見張り台の櫓ではなく横穴式墳墓を指す。
腹切りやぐらは鎌倉幕府第14代執権・北条高時が切腹した場所と伝わるが、太平記を読む限り『やぐら』で切腹をした描写は無い。
また建物が非常に大きく、葛西ガ谷の中央に位置し、谷戸の中で唯一腹切り伝説のある地に接して存在することから、北条高時一門が自刃した建物であるかも知れません。
鎌倉の埋蔵文化財2 平成8年度発掘調査の概要
東勝寺跡は数回に亘って発掘調査が行われており、その実在は証明されている。
三鱗の瓦や中国製の陶磁器、掘立柱建物の跡が発掘されているが、人骨は見つかっていない。太平記に”死骸ハ焼テ見ヘネ共後ニ名字ヲ尋ヌレハ此一所ニテ死スル者総テ八百七十餘人也”と記されている通り死体は放置されることなく片付けられたらしい。
やや離れた釈迦堂ヶ谷やぐら群から『元弘三年五月廿八日』と刻まれた五輪塔の一部が発見された。これは北条一門が敗死した日から数えて初七日供養の時期に当たるそうだ。
鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、『宝戒寺二世普川国師入定窟』と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。
出典は不明だがwikipediaに以上の記述があった。
『元弘三年五月廿八日』の五輪塔が発見されたことによって伝承の信憑性が増した。
終わりに
現在、腹切りやぐらは落石・岩盤剥離の危険があるため立入禁止となっている。(2024年8月時点)
立入禁止区域には入らない主義なので、残念ながら腹切りやぐらの写真を収めることは叶わなかった。ネットに幾らでも画像が上っているので気になる方は検索どうぞ。
また、鎌倉に訪問する機会があれば寄ってみようかと思う。
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