由比ガ浜に幽霊の噂?約4000体の人骨が発掘された海岸へ

由比ガ浜

何も知らずに訪れたなら由比ガ浜と材木座海岸はひとつの海岸に見えるだろう。

朝比奈峠を源流とする滑川河口の左岸を材木座海岸、右岸を由比ガ浜で分けている。

材木座海岸については以前紹介しているので下にリンクを貼っておく。

興味のある方は是非読んで頂きたい。

材木座海岸と同様に由比ガ浜にも心霊の噂が流れている。

理由はほぼ同じなので、併せて紹介しようかとも考えたのだが、一応別の海岸なので記事を分けた。

 

由比ガ浜へのアクセス

由比ガ浜地下駐車場が海岸から最も近い駐車場なので、短時間の滞在であればここをおすすめする。

少し離れた所で良ければもう安い駐車場もありそうだ。長時間であれば最大料金が設定されている駐車場の方が良いだろう。

私は鎌倉駅からゆっくりと歩いたが、30分くらいかかったと記憶している。

 

 

由比ガ浜南遺跡について

由比ガ浜

由比ガ浜地下駐車場を設置する際、1995年~1997年(平成7~9)にかけて行われた調査で驚愕の遺物が発掘された。

鎌倉時代中頃の由比ガ浜周辺には集団墓地があったと判明。凡そ4000体の人骨と共に牛、馬、犬、イルカ、クジラの獣骨が埋もれていたのである。

材木座中世遺跡や稲村ヶ崎にある極楽寺橋の袂から発掘された人骨は刀傷や刺傷などの外傷を受けた痕が多くみられたため、1333年(元弘3)の鎌倉攻めの戦死者だと考えられているが、由比ガ浜南遺跡の人骨には戦争の外傷は殆ど見られなかった。

柩に入れられ丁重に埋葬された骨もあれば、無秩序に葬られた多数の骨も見つかった。後者は地震や疫病による大量死に関するものではないかとされている。

 

吾妻鏡の静御前に纏わる悲話

由比ガ浜には源義経の妻・静御前に纏わる悲しい物語が残っている。

廿九日 庚戌 靜産生男子、是豫州息男也、依被待期、于今所被抑留歸洛也、而其父奉背關東、企謀逆逐電、其子若爲女子者、早可給母、於爲男子、今雖在襁褓内、爭不怖畏將來哉、未熟時、断命條、可宜之由治定、仍今日仰安逹新三郎令弃由比浦、先之新三郎御使、欲請取彼赤子、靜敢不出之、纏衣抱臥、叫喚及數剋之間、安逹頻譴責、礒禪師殊恐申、押取赤子、与御使、此事御臺所御愁歎、雖被宥申之、不叶云々

吾妻鏡 6巻より引用

文治2年(1186)閏7月小29日、庚戌。
静御前が男子を産んだ。この子は源義経の子供である。
源頼朝公はこれを待っておられたため、今まで都へお帰りになるのを留めていらっしゃった。
その父は関東に背き、謀反を企て行方をくらましたのである。
その子がもし女子であったら静御前に戻されたが、男子だったため、今は赤ん坊とはいえども、将来が恐ろしいので未熟な時に命を断つのが宜しいと決定された。
したがって今日、安達新三郎に命じて由比ガ浜に捨てさせることにした。
新三郎は使者として赤子を取りに来たが、静御前はこれを出さず、身に纏う衣の中で抱き、数時間も泣き叫んだので、安達新三郎は頻りに譴責した。
磯禅師(静御前の母)は譴責を恐れ、赤子を無理矢理引き離し安達新三郎に渡した。このことを北条政子様は『あまりにも哀れです』と頼朝公に訴えたが、赤子は救えなかった。

静御前の悲痛がひしひしと伝わってくる名場面である。

源義経の赤子が兄・頼朝の命令によって由比ガ浜に打ち捨てられた。

この時代に生きた武士からすると珍しい事では無かったのかもしれないが、安達新三郎清常も嫌な役目を仰せ付かったものだ。

 

吾妻鏡と和田合戦

由比ガ浜

国立国会図書館ウェブサイト 新編相模国風土記稿 鎌倉郡巻之二 村里部より引用

いちのまる
いちのまる

吾妻鏡は由比ガ浜が古戦場であったことを伝え残しています。

同時、向大軍於濱而合戰、義盛重擬襲御所、然而若宮大路者、匠作、武州防戰給、町大路者、上総三郎義氏、名越者、近江守頼茂、大倉者、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各張陣之間、無據于擬融、仍於由比浦並若宮大路合戰移時、凡自昨日至此晝、攻戰不已、軍士等各盡兵略云々

吾妻鏡 21巻より引用

同じ時、大軍を向かわせ浜において合戦。
和田義盛は再び御所を攻撃しようとしたが、若宮大路は北条泰時・北条時房が防戦し、大町大路は足利義氏が、名越は源頼茂、大倉は佐々木義清・結城朝光たちが各陣を張っていたため、突破を試みたが無駄であった。
したがって由比ガ浜や若宮大路において合戦が起きた。
おおよそ昨日より今日の昼まで戦いは終わらず、軍士らは戦略を尽くした。

1213年(建暦3)に発生した和田合戦の一幕である。

戦場となった若宮大路は由比ガ浜から鶴岡八幡宮まで延びる参道を指す。

和田合戦は源頼朝が亡くなった後に発生した有力御家人の和田氏と鎌倉幕府執権・北条氏の争いで、北条氏側の勝利に終わり幕府内の権力を掌握、反対に和田一族は殆ど壊滅した。

 

此輩悉敗北之間、世上属無爲、其後、相州以行親、忠家、被實撿死骸等、搆假屋於由比浦汀、取聚義盛以下首、及昏黒之間、各取松明

吾妻鏡 21巻より引用

この連中が悉く敗北したので、世の中は普段通りになった。
その後、北条義時は金窪行親・安東忠家に命じて死骸の実検させた。
由比ガ浜の波打ち際に仮屋を構え、和田義盛以下の首を集めた。
この間に暗くなったので各所に松明を灯した。

敗北した和田義盛の一党は処々で討ち取られ、その首は由比ガ浜に集められ首実検が行われた。

集められた首は海、または河口で清められた後、首実検に回されたのかもしれない。

 

終わりに

由比ガ浜

材木座海岸の記事でも述べたので割愛したが、由比ガ浜でも水難事故は発生している。

由比ガ浜は歴史的に見ても死に関わりの深い土地だということが判明した。

心霊スポットの噂が流れてしまうのは止むを得ない事なのかもしれない。

しかしまぁ、どの時代から存在する幽霊が私たちを驚かせるのか知る由も無いが、埋葬されていた鎌倉時代の方々がそれだったとしたら霊とはなんと長生き(?)なのだろうか?

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