KKR運営の稲田登戸病院の今昔を空から眺めてみよう!

稲田登戸病院

ここは国家公務員共済組合連合会(KKR)に運営されていた稲田登戸病院の跡地である。

稲田登戸病院は1949年(昭和24)に開院。建物の老朽化により2006年(平成18)3月31日に閉院した。

周辺に大規模な総合病院が無かったため稲田登戸病院の閉院は大きな問題になった。

KKRは閉院の理由を『敷地を所有する民間の地権者が明け渡しを求めているため。』としたが、有志の調査で病院の敷地の三分の一がKKRや国有地であることが判明し、閉院反対派は『それだけ敷地があれば存続は可能である。』と唱えた。

とある新聞の記事を要約したが、内容の正否は不明である。
いちのまる
いちのまる

閉院に関する過去の新聞記事を読むと、ちょっと政治色の濃い事情のように感じました。こういうジャンルについて語る自信も度胸も無いのでこれ以上は口を慎みます!勘の良い方なら何となく事の顛末を分かっていただけると思います。

閉院前に川崎市立多摩病院が設立され一応の解決を見た。

 

稲田登戸病院を上から眺める

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1949/03/03(昭24)撮影)

量こそ少ないが、廃墟の内観を写真に収めているサイトがあるので気になる方は『稲田登戸病院 廃墟』などとgoogleで検索してみるといいだろう。

私は過去の空中写真から稲田登戸病院を追っていこうかと思う。

上の写真は開院されたとされる1949年(昭和24)の写真である。真ん中の建物が病院の位置と重なるので、これが初期の姿なのかもしれない。

 

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1955/01/25(昭30)撮影)

1枚目からおよそ6年後。

5棟の病棟がはっきりと分かる。

wikipediaの情報によると”開院当初は結核病棟があり、結核患者用の隔離病棟も存在した。”とあるが、下の2棟が他からかなり離れているのでそれに当たるのだろうか。

 

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1961/09/01(昭36)撮影)

更に6年後。

どんどん拡張されていく!

現地に訪問した時はこれまで大規模な病院だとは思わなかった。

私が跡地だと想像して眺めていた場所の裏にも病院は広がっていたのだった。

 

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1971/04/25(昭46)撮影)

また1棟増設されている。

どこまで拡張するのだろうか?

確かにこれだけの病院が閉院するとなったら『ちょっと待ってくれ!』となるかもしれない。

 

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1984/11/22(昭59)撮影)

西側に新たに道が引かれ更に病棟の追加。

恐らく南側の数棟はもう使われていないのでは?

廃墟探索者が写真に残しているのは南側の病棟であろう。

 

稲田登戸病院

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(2009/04/28(平21)撮影)

解体前後の程よい年月の写真が無かった。

後から増築された病棟だけを残し更地になってしまった。

この写真から稲田登戸病院は升形山から舌状に伸びた小高い丘陵に建っていた病院だと分かる。

 

終わりに

稲田登戸病院

高浜虚子の長男である高浜年尾の句碑が病院跡地の対面に置かれていた。

“そぞろ来て夜の梅林を抜けんとす”

詳しいことは分からないが、晩年に高浜年尾は稲田登戸病院で入院していたらしい。

いちのまる
いちのまる

そういえば心霊の話を一切していませんでした。

もう存在しない施設だから、まぁいいか。

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