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江の島で修業して鍼治療の達人になった杉山和一について【神奈川】

杉山和一(すぎやまわいち)。

私は江の島探索するまでこの人物について何も知りませんでした。

『旅は学び』

誰が残した言葉かは忘れましたが、まさにその通りだと思います。私たちは知らない何かを見つけるために旅をするのです。

いちのまる
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出会いは何も生きている人間だけではありません。故人。これも一種の出会いだと思うのです。

 

杉山和一の墓

杉山和一の墓

杉山和一(1610~1694)。現在の三重県津市の出身。

幼少期に伝染病で失明し、長男として家を継ぐことをあきらめて義弟に杉山家を譲ります。

17歳位の時に鍼術の道を目指し、山瀬琢一なる人物に師事しますが、上達せず破門されてしまいます。 破門されて絶望しますが『盲目の自分が生き抜いていくには鍼術の道しかない』と江の島の弁財天の下で命を賭した断食修行を行いました。

弁財天は琵琶法師(琵琶を弾く盲目の芸人)と関係があり、財宝神の性格の他に芸能上達、盲目の守護神としての性格も持ち合わせていました。

 

福石と江の島弁財天道標

杉山和一の墓

弁財天の下で修行したあとに石に躓いた時、筒に入った松葉が身体に刺さりましたが、なぜかどこも痛くありませんでした。これがきっかけで管鍼法を思いついたといいます。

鍼法は管を皮膚に当てて鍼を刺すことによって痛みを軽減させる現在まで続く施術法です。現在、日本で行われている鍼治療の殆どは管鍼法と言われています。和一が躓いた石が江の島にある福石だと伝わります。

その後、和一は破門された山瀬琢一の師匠である入江良明に弟子入りしようと京へ向かいます。ところが入江良明は既に亡くなっていたので、入江流を継いだ息子の入江豊明に弟子入りしました。その後、入江豊明の奥義を習得し江戸で開業し大成功を収めたと伝わります。

5代将軍徳川綱吉の目にとまり61歳の時に盲人の役職・検校となり72歳で綱吉の指令を受け鍼術の稽古場を創設。徳川綱吉と和一の関係を表現した【本所一つ目】という有名な逸話が残っています。

綱吉:そちは素晴らしい施術をしおるな。

和一:滅相もございません。

綱吉:よい、謙遜はよい。褒美に何かやろう。欲しいものはないか?

和一:……。一つでいいので目が欲しいです。

綱吉:おっ……おぅ……。すまぬことを申した……。

和一:出過ぎた真似を。申し訳御座いませぬ。

綱吉:詫びるのはわしのほうよ、お詫びと言っては何だが土地でもやろうではないか。

 

終わりに

これにより和一は本所一つ目という土地を与えられ、そこに稽古場を建てました。

この稽古場は世界初の盲人教育の学校と言われています。跡地には江島杉山神社(東京都墨田区)が鎮座しています。それまで盲人官位(検校)になるためには本部がある京都に行かなければなりませんでしたが、和一が惣録検校となったことで関東でも検校になれるようになりました。

日本鍼術中興の祖・杉山和一。盲目の人々に勇気を与えた彼の功績は後世まで受け継がれなければなりません。

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