3333の頸が…。島原・天草の乱に関する心霊スポット、富岡吉利支丹供養碑へ

富岡吉利支丹供養碑

天草諸島北西部に位置する苓北町富岡の首塚(千人塚)。

首塚とは戦で討ち取られた首や刑場で処断された首を埋葬した塚のことをいう。
また千人塚は災害や刑場で亡くなった多くの人々を一ヶ所にまとめて弔った塚のことを指す。

首塚や千人塚はその特性上とかく心霊スポットとして扱われることが多い。

数多の亡骸が埋葬された訳であるから、そのように見られてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。

ただ無造作に遺体が捨て置かれたのではなく、宗教的な手順を踏んで供養された霊なので必要以上に恐れることはないと思う。

いちのまる
いちのまる

幽霊が本当に存在するのであればね…。

では、本題に入る。

 

富岡吉利支丹供養碑について

富岡吉利支丹供養碑

富岡の首塚(千人塚)には富岡吉利支丹供養碑という1637年(寛永14)に九州地方で発生した島原・天草の乱に関する石碑が建立されている。

島原・天草の乱の原因は↓

・過度な年貢の取り立て
・悪天候による飢饉の発生
・キリシタンに対する迫害

ずっと私は、弾圧されたキリシタンのみが反抗した一揆だと勘違いしていたが、そう単純な戦いでは無かった。

重税に苦しむ農民や庄屋、時代に取り残された浪人、弾圧されるキリシタン。

それぞれ別の理由で怒り狂った人々が団結し、天草四郎を総大将として担ぎ上げ引き起こした戦いが島原・天草の乱である。

 

富岡吉利支丹供養碑

供養碑は島原・天草の乱の鎮圧に貢献し天草代官になった鈴木重成が1647年(正保4)に建立した。

写真の説明板に碑文の内容が記されている。

キリスト教の批判から始まり反乱の様子が描かれ、そして戦後ここに3333の首が埋葬され鈴木重成が供養したとある。

碑文ではキリスト教をこき下ろし反乱を主導したのはキリシタンだとしている。

様々な要因が絡んでいると上述したが、江戸幕府は島原・天草の乱をキリシタンの反乱とすることで弾圧の口実を強める狙いがあったそうだ。

江戸幕府は悪政を敷き反乱の原因をつくった島原と天草の領主を厳しく咎めた。

幕府のお怒りは相当なものだったようで、島原藩主の松倉勝家は斬首刑に。

唐津と天草を領していた寺沢堅高は天草の領地を没収で済んだが、後に精神に異常をきたして自害している。

江戸時代に入ってから斬首に処された大名は松倉勝家が唯一。

終わりに

富岡吉利支丹供養碑

供養碑を建てた鈴木重成は荒れ果てた天草の再興に尽力。

前任の寺沢氏の出鱈目な石高算出が貧困の原因だと見抜いた鈴木重成は再検地を行い幕府に申請。

しかし幕府はこれを認めなかった。

このままいっても藩の経済は悪くなる一方である。

天草の民の繁栄を切に願った鈴木重成は事の重大さを幕府に知らしめるため願書をしたため切腹。

二代目・鈴木重辰は重成の意志を受け継ぎ猛抗議を続け、ようやく認められた。

民を想い自らの命を投じた鈴木重成は、里人に神様として崇められ鈴木神社に鎮座している。

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