石塘は『いしども』と読む。塘は『堤』と同義なので石で造られた堤防を指す。
豊臣秀吉から肥後国(熊本)の北半分を拝領された加藤清正は領地の視察を行い、菊池川の流れを変えることで広大な農地を獲得出来ると判断し大工事に取り掛かった。
当時の菊池川は横島と久島の間を通り有明海に流れていたが、加藤清正は掘削作業と堤防設置などを行い、現在の河道に変えるまでに至る。
その一環で潮を止めるために延長380mの石塘が築かれた。
戦国時代末期に始まった一帯の干拓事業は後世に引き継がれ昭和後期にやっと完了した。
さて、本題。
オカルト界隈の一部では石塘橋を心霊スポットとして扱っている。
何故なのか?答えは現地にあった。
南無妙法蓮華経の石碑。
裏面を見てみよう。
人柱之碑と刻まれていた。
石塘が築堤された横島・久島間は丹倍ヶ淵と呼ばれ、海底が深く急潮で渦が巻く難所であった。
石や木などの資材を投入しても毎回流され工事は難航した。当然、殉職された方々もいただろう。
人間の力ではどうにもならないと悟った人々は古いしきたりに従い人柱を神に捧げ、横島山の頂きから読経し石塘を完成させたと伝わる。
写真は石塘橋から少し離れたところに人柱や工事で亡くなった方々を祀る本田大明神。
せっかくなので現地案内板を引用する。
横島には石塘築堤における人柱の伝説が伝えられ、今でも大園地区では一月五日(旧暦十一月二十五日)に祭が行われている。碑文には次のようなことが記されている。
加藤清正は横島と久島間をせき止め、海を干拓し田畑にしようと考えた。しかし、この工事は激流のため難航を極め幾度も塘が壊された。庄屋の伝作が人柱に立つことを申し出たので清正はその意を汲んで実施することを決意した。慶長十年(一六〇五年)のことである。
当日、村人が伝作に願いを聞くと米の団子を食べたいと言ったので、蒸そうとしたが時間がなかったので生のまま与えたところおいしく食べたという。それにならって祭日には生の団子をお供えして帰ってから蒸かして食べる習わしとなった。
平成二十年四月 横島校区まちづくり委員会『本田大明神 案内板』より
同じような記述が他にないかと肥後国誌を調査した。
土俗傳云慶長ノ始加藤淸正公當村ヨリ伊倉唐人町丹倍ノ津ニ通スル船江ノ湊アリ塘ヲ築キケレトモ敢テ保タス度々ニ及ヒ様々ニ手ヲ盡セトモ風濤忽チ侵シ破ル故ニ佛經ヲ納メ塘ヲ築キシヨリ此塘崩レス此所以ニテ經留リト云今ハ京泊ト書ス其比迄ハ當村ハ海上ニテ陸ヲ離レタル横島也シト云
肥後国誌 伊倉荘 横島村より
石塘について書かれていた。
ただ、肥後国誌には仏経を納めたとあるだけで人柱のことは記されていなかった。
肥後国誌の著者は人柱伝説を知らなかったのか?
それとも何らかの理由で書けなかったのか?
はたまた、人柱なんて存在しなかったのか?
終わりに
人柱が本当にあったのかは分からないが、石塘築堤の作業中に犠牲者が出たことはほぼ間違いない。
もしかしたら殉職者たちを祀っていくなかで人柱の伝説が生み出されたのかもしれない。
石塘築堤で亡くなった方々は本田大明神で丁重に祀られている。
私は幽霊が見えないので偉そうなことを言えないが、ここを心霊スポットとするのは違和感を覚える。
コメント
モーテルサンリバーという心霊サイトの裏付け調査してほしいです
ココア 様
コメントありがとうございます。
京都にある心霊スポットなのですね。
ブログのコンセプトが『実際に行った場所』なので、
京都へ訪問する際は行き先の候補として入れておきます。
横島山の東側?にテレビの送信所があり、そこに経塚史跡公園とゆうありふれた公園があります。
人柱をたてる際、高僧が読経を読み上げたんですが、場所が公園内の一角で読経の巻物を埋めた場所に、記念碑とゆうか供養塔?があります。
江戸じたいくらいまでは、土木関係の工事が上手くいかない場合、人柱をたてるのは全国的によくある話ですし、言い伝えでは難工事でよく壊れてたみたいですから、人柱を入れる可能性は0ではないです。
トドメに加藤清正公を奉ったらしい加藤神社までありますから、可能性は高いんじゃないかな?
プー太郎さん
こんばんは。
伝説は各地に多く残っていますが実際に人柱が出てきたケースは少ないと聞きますね。
まぁ、全てを掘り返した訳ではないでしょうから何とも言えないですが。
なので、私はなるべく文章をぼかすようにしています。知りようがありませんので。
人柱といえば、昭和の世になって史実とほぼ確定したのが新潟県上越市にあります。
この辺りは元々地すべりが起きやすく、困っている住民に旅の僧が自ら名乗り出て人柱となり、以降地すべりはおさまったという伝説がありました。
昭和12年に田んぼを掘っていたところ、大きな素焼きのかめが見つかり、その中から座禅を組んだ人骨が発見された。村人たちは伝説が本当のことだと分かり、骨が発見された場所に、人柱供養堂を建てました。
昭和36年に新潟大学がその人骨を調べたところ、鎌倉時代末期の40代くらいの男性の人骨であると判明しました。人骨は、小柄であるわりには脚の骨が太く、腕の骨は細かったことから、地元の農民であれば、腕の骨は太いはずなので、農作業には携わらずに諸国を行脚していた旅の僧のものであろうと推定されたとのことです。
平成4年には、供養堂が建て替えられ、隣に地すべり資料館が建てられた由にございます。
剣刀太子王さん
こんばんは。
いつもありがとうございます!
これは勉強になります。知りませんでした。
流行り病が落ち着いたら行って見たいと思います。