武雄市北方町にある焼米溜池。
心霊スポットとして知られているらしいが、不気味な雰囲気は一切なく長閑な風景が広がっていた。
私は霊の存在を殆ど信じていないのだけれど、心霊スポットの由来に興味を惹かれる。
『何故、そのような扱いを受けているのか?』
これを知りたいがために心霊スポットに訪問し歴史を調べているのである。
さて、焼米溜池。ここで何か起きたのか?
焼米溜池の場所
長崎自動車道の武雄北方ICを下りて左折(北方方面)。約5分道なりに進むと『きたがた四季の丘公園』の案内板がある。
北方町赤坂の信号を左折し、しばらく進むと公園駐車場があるのでそこに停めるといい。
JR佐世保線・北方駅からすぐ近くなので、自動車を所有していない方でも簡単にアクセス出来る。
焼米の由来
まずは焼米の由来から見ていこう。
平凡社の『日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名』に次のように記されている。
焼米村
現北方町の東部に位置し、鬼ノ鼻山の南麓で東西に細長い村。慶長絵図に『焼米』とある。
伝説によれば、むかし武内宿禰がこの村を通った時、村人たちが米を煎って宿禰をもてなしたので『焼米』の地名が生れたという。
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 北方町 420頁より
武内宿禰(たけうちのすくね)は古代日本の人物で天皇に尽くした忠臣として語られる。
伝説の真偽は不明だが、保存食として作られた焼き米が地名になったことは間違いなさそうだ。
いずれにせよ、名前の由来に心霊スポットを匂わせる物語はない。
焼米溜池の歴史
溜池の歴史も『日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名』にあったので引用する。
焼米溜池
鬼ノ鼻山の南麓の舌状地に挟まれた谷間にあり、周囲四キロ。
寛政十二年(一八〇〇)佐賀藩が新田を開発した白石平野の三万石の水田の灌漑用水を確保するため、多久領主に命じて築造させたものである。
(中略)
水路の一部が大配分の須古領を通るため、幅二町・長さ一五町を佐賀本領とし、須古領には替地として白石領の久治村の半分を与えた。
受益の集落には現在でも用水組合があり、この溜池の貯水利用にはきびしい制限がある。
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 北方町 420頁より
また、佐賀新聞の『2003年3年27日』と『2011年1月23日』の記事を以下に要約する。
江戸時代中期に干拓事業が完成し1790年に福富新村が造られた。それまでは成富茂安が築造した永池溜池から取水していたが、水田が増加したことで水不足が発生。佐賀藩は新たな溜池の築造に迫られる。
佐賀藩8代藩主・鍋島治茂は1800年(寛政12年)に龍王池(焼米溜池)を築造。
※旧長崎街道・焼米宿の説明板から推測するに龍王の名はかつて池のほとりにあった龍王社が由来だと思われる。現在の海童神社の場所に龍王社があったようだ。
焼米溜池の水を利用する北明地区などは排水の時期になると『担任』と呼ばれる池を管理する番を置いた。『担任』は排水期間に焼米地区の民家に泊るそうだ。焼米地区の住民は彼らを迎え入れ食事や風呂の世話をする。現在に至るまでこのしきたりは続いているという。
心霊スポットと言われる根拠?
今は跡形もないだろうが、焼米溜池を築造するにあたって集落が沈められた。
移動を余儀なくされた住民は屋敷代や作付料の補償受け立ち退いている。移転した15戸に定銀27貫355刄を出したとある。
住民の愁訴に『神社2社と3ヶ所の墓地』の記述があるようだ。下記のサイトに詳細が書かれているのでお時間のある方はどうぞ。
恐らく移動する際に宗教的な儀式を行っただろうが、先祖代々の墓や集落の守り神であった社はそのまま水に沈められてしまったのだろう。
心霊スポットの根拠となり得そうな話だが、焼米溜池は場所は離れているものの白石平野の住民たちに潤いを与え続けている。多くの感謝がこの溜池に寄せられているのだ。当初は水没によって生まれた霊だったかもしれないが、今はもう神の類に昇華していると信じたい。
終わりに
最後に2つ事故&事件をお伝えして終わろうと思う。
水没集落とこれらの事件が絡み合って心霊スポットの根拠となっているのかもしれない。
コメント