常広城跡(恒広城)は鹿島川と塩田川に挟まれた平地に築かれた城です。跡地に北鹿島小学校が建っています。
常広の名は明治22年迄あった常広村が由来。鹿島鍋島氏の初期居城だったため鹿島古城とも呼ばれています。
戦国時代の終り頃鹿島一帯は有馬と竜造寺が対峙していた。
天正四年(一五七六)竜造寺は鹿島を攻め鹿島地方にあった有馬の城をつぎつぎと攻め落とした。
竜造寺が支配することになった鹿島城には戦に手柄のあった鍋嶋信房がおかれた。
信房はやがて佐賀藩祖となった鍋嶋直茂の兄である。
北鹿島小学校 赤門前 旧鹿島城址由来より
とありますが、元々あった城に入城したのか、鍋島信房が築城したのか?詳細はわかりません。
常広城の場所
国道444号線にある北加鹿島小学校の信号を曲がった先にあります。かなり狭い道を進みますので運転注意です。
駐車場は見当たらなかったので路上駐車するしかなさそうです。私は広めの道のわきに駐車して歩いて向かいました。
常広城について
孫引きになってしまいますが、鹿島鍋島氏4代目・鍋島直條が残した『鹿島志』に常広城のことが書かれています。
『本丸は松杉の中に在り、古より之を園と称し楽思と名づく。
池あり林あり園あり圃あり、北隅を松丸と曰ふ。
西方の田畔は是を乙丸と称す。
四面食禄の家連庸す南西には市陌あり、漁村あり、軒を並べ宇を連ね、江を傍うて橋を架す。
さきの所謂横蔵の古戦場なり』とあり、
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 常広城跡 488頁より
『横蔵の古戦場』とありますがこれは肥前国の大名・龍造寺隆信が有馬氏の横蔵城を攻め取った戦いのことを指しています。その後、沖田畷の戦いで龍造寺隆信は有馬晴信・島津家久に敗れ戦死します。
隆信死後、龍造寺政家が跡を継ぎますが、力を付けた鍋島直茂が龍造寺氏の実権を握り大名へと出世しました。
常広城は川に挟まれた低地であったため水害に悩まされる。
堤防を築き、城の周りに土手や堀を廻らせるもとうとう水害には勝てませんでした。
2009年の佐賀新聞に〈歴史検証シンポ、鹿島城の謎に迫る〉という興味深い記事が残っています。
『水害が原因で移動したと言われているが、大砲による戦いを想定した戦略的な意味があったのではないか?』
利用しているデーターベースサービスは引用禁止なので記事の一部を要約しました。
こういう様々な見解があって歴史が造られていくのですね。
終わりに
どうやらここ、心霊スポットとして知られているらしいです。
心霊サイトを見ると『処刑場があった』とか『洪水で死者が出た』などといったことが書かれていました。
城内に処刑場があったとは思えません。
常広城周辺だけではなく、有明海に面する佐賀の平野は昔から水害に悩まされてきました。
ですので洪水を根拠にここだけを心霊スポットと言うのは少々無理があると感じます。
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