佐賀県の黒髪山へ。
心霊スポットの噂があると知り訪問したわけだが…。
霊も神も殆ど信じていない私が言うのも可笑しな話ではあるが、心霊スポットというよりも神霊スポットといった方がしっくりくる。そう登山中に感じた。
帰宅して黒髪山について調べると山岳そのものが信仰の対象となっている神体山であることがわかった。私の感じたイメージは間違っていなかったようだ。
というわけでサイトの性質上、心霊スポットの括りに入れるが『ここは心霊スポットじゃない』と早々に結論づけて黒髪山を紹介することにする。
黒髪山へのアクセス
乳待坊公園、竜門峡、西光密寺などの登山口がある。
私は最短で頂上まで行ける西光密寺コースを選んだが、登山を楽しみたい方は別の登山口に行くべきだろう。どうやら竜門峡からの登山が一般的なようだ。
黒髪の由来
(1)江戸時代の『肥前古跡縁起』によると、昔インドの国王が日本に来て黒髪山に腰をかけて髪をそり落としたところ、突然神の姿に変わったので黒髪山と名付けた。
(2)弘法大師が全国行脚の時、この山に立ち寄り、黒髪をそって洞穴に納めたので名付けた。
(3)黒髪神社に伝わる説によると、女神伊弉冉尊が大勢の子を産み、泉で身を清めようとしたところ、男神伊弉諾尊がのぞき見をした。伊弉冉尊は怒って黒髪を切って投げつけた。すると黒髪は山の姿に変じた。
日本歴史知名大系代四十二巻 佐賀県の地名 黒髪山 412-413頁より
どれも伝説の域を出ないが(2)は他の二説から比べれば現実的だと思う。
現在、西光密寺がある場所には弘法大師の弟子が開いたとされる大智院があった。明治期の神仏判然令で黒髪神社と分離させられその後、長崎県佐世保市に移設している。
弘法大師は唐から帰国した後、大宰府の観世音寺にしばらく滞在したそうだ。大智院のHPに顛末が記されているので引用する。
弘法大師空海上人が若かりし日、留学僧として渡唐の途中、留学の目的達成を(現在の武雄市山内町の)黒髪山大権現に立願され、松浦郡田ノ浦の港から出航、唐の国長安(現在の西安)において青龍寺恵果和尚より真言密教を伝えられ、(大同元年)帰国の後、博多に留まられていた際に、満願成就を奉告に再度黒髪山にご登嶺され、自ら爪で不動像を刻し、弟子快護に託して山上に庵を作らせたのが寺の起源と伝わる。
黒髪山大智院 旧ホームページ 寺院の歴史より引用
真偽の程は不明だが、弘法大師と黒髪山に何らかの関係があったのかもしれない。
いずれにしても黒髪の由来からして神や仏と深い縁のある山だということがわかる。
黒髪山と信仰
この上に黒髪神社の上宮がある。
普段は固く閉ざされているが、たまたま御開帳の日に訪問したため上宮の内部を拝見することが出来た。
当社は、崇神天皇十六年、黒髪山を卜定し朝廷の勅願社として創建されたと伝えられる肥前最古の由緒をもち、古い信仰形態である磐座信仰や天童信仰をはじめ熊野信仰、大蛇退治伝説など多くの伝承が残る処として内外の崇敬をうけてきた神社であります。
『黒髪神社上宮御改築 御寄進のお願い』より
とのこと。
磐座信仰、天童信仰は自然崇拝の一種で磐座は『岩』、天童は『太陽(穀霊)』を指す。和歌山の熊野三山の修験者が発祥の熊野信仰は神仏融合の山岳信仰である。
崇神天皇は3世紀後半の王とされている。大昔から黒髪山は信仰の対象として崇められてきた。原始的なアニミズムから始まり、時代と共に神道、修験道、仏教などの宗教が混ざり合った。かなり宗教色の強い山であるが故に訝しく思う人もいたかもしれない。
幽霊が出るという話は案外こういったところが原因だったりする。(知らないけど)
大蛇退治伝説について
黒髪山上宮から頂上に向かう途中に鎖場がある。
難易度は低い。しかし転落したらただでは済まない。
体力、腕力に自身のない方は引き返した方がよいと思う。
鎖場を越えた先にある天童岩。
この岩に蜷局を巻いていた大蛇をチート武将・源為朝が弓で射殺すという伝説が残っている。黒髪神社で毎年行われている流鏑馬はこの伝説が発祥だとされている。
源為朝は源頼朝、義経の叔父。ぶっとんだ伝説が多い武将。
ならず者だったため父親に勘当され九州へ追放。その後、戦の助っ人として呼び戻されたが保元の乱で兄の源義朝、平清盛に敗北し伊豆大島に配流後に自害したと伝わる。
追放された先の九州で暴れ周って王となったり、配流先の伊豆諸島でも力を発揮し島を支配したと云います。
『伊豆大島がヤバい!』と知らせが入り本土から軍を差し向けられ、追い詰められた後、自害したと云うのが通説みたいだけれども、実は生きていて琉球に落ち延びたという伝説も残る。
終わりに
天童岩から眺める景色は抜群に美しかった。
空気は良いなかで程よい運動したお陰か少し活力が湧いた気がする。ここはパワースポットだな!
時間があれば別の登山道から再チャレンジしたいと思う。
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