呪詛伝説・鬼子嶽末孫と岸岳城、及び松浦党・波多氏の歴史について

岸岳城

吉志峯とも岸嶽とも云ふ。唐津より三里巳午の方、城高さ十三町餘坂道難所也。

曲輪三ツ、溝の廻り十丁餘、大手より西の向本北より一丁下に出水在り、城山四方嶮岨山深〱茂り、近邊の山低し。

松浦記集成 ニ 鬼子嶽城より

吉志峯、或いは岸嶽ともいう。唐津より南南東に約12km、城の高さ1400m余(麓から本城までの距離か?)坂道で難所である。
3つの曲輪、溝の廻りは1000m餘り、大手より西の向き、本城の北より100m下に湧き水があり、城山の四方は険しく山は深々と茂り、近辺の山は低い。

岸岳城は標高320mの岸岳に築かれた山城である。城跡には石垣の跡や堀切、旗竿石などの遺構が残る。

岸岳は鬼子岳とも書き、これは大昔この山に鬼が住み着いていたという伝説から来ている。岸岳城の歴史を語るに外せない伝説なので後ほど説明しようと思う。

登山道は整備されていて、案内板も充実しているため迷うことなく登城できるが、急な斜面や足場の悪い箇所があるので最低限の装備は整えて臨むべきだ。

終着点まで急ぎ足で登って片道1時間弱、ゆっくりだと1時間半程。遺構や縄張りをしっかり確認したい方は時間に余裕を持って臨もう。

それでは岸岳城の様子とその歴史を紹介する。

 

岸岳城の場所

岸岳城

下の地図の赤ポチ付近に『岸岳城登山口駐車場』がある。

狭い山道を通るので運転注意!

 

鬼子岳城の伝説

岸岳城

傳説によれば鬼子嶽は往古鬼住みしといへり。
其の由來を尋ぬるに、長元四年平忠常下總國にて反逆を企て源賴信に亡ぼされたるが、其の黨與に信州福原の野武士稻江多羅記といへる者あり。

(中略)

其の子に鬼子嶽孤角といへる者あり、飽まで强力にして所々に掠奪强盜を働き之に附隨する者三千人、鬼子嶽の要害を利用して山砦を築き、自ら大名に擬したる驕奢の生活をなし、神出鬼沒民物を暴害して勢ひ當るべからず。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 三、鬼子嶽の由来より

伝説によれば鬼子岳は大昔、鬼が住んでいたという。
その由来を尋ねるに、長元4年(1031)平忠常が下総国で反逆を企てたため源頼信に滅ぼされるが、その仲間に信州福原の野武士である稲江多羅記という者がいた。(中略)その子に鬼子岳孤角という者がいて、どこまでも強く所々に掠奪強盗を働き、これに付いていく者は3000人、鬼子岳の要害を利用して砦を築き、大名になったつもりで奢った生活をし、神出鬼没で人々に危害を加え、向かう所敵なしであった。

孤角の悪行は朝廷まで届き、すぐに渡辺久を総大将とした討伐軍が派遣された。

渡辺久は嵯峨源氏の血統を持つ渡辺綱の曾孫。綱は武勇に優れた武将で『酒呑童子退治』や『名刀・髭切』などの逸話が知られる。

久は3000余騎の軍勢を引き連れ、豊前、筑前の賊を滅ぼした後、肥前国松浦郡に入り鬼子岳を包囲。

孤角は鬼子岳に籠城したが、訓練された大軍相手に為す術もなく討ち取られた。

孤角の首を携え京へ凱旋した久は褒美として松浦の地を授かり再び下向し、松浦の姓を名乗る。

その子孫は大いに繁栄し、松浦党と呼ばれる強力な武士団を結成した。

これは伝説!
久が肥前松浦氏の祖であることはほぼ間違いないようだ。

波多氏について

岸岳城

東部松浦は直の弟源二郎持波多鄕を分封せられ從五位に叙し、鬼子岳城を築きて之に居る、

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 五、松浦族の發展と鬼子嶽城の築營より

東部松浦は直の弟である持が波多郷を分け与えられ従五位に叙され、鬼子岳城を築き居城とした。

この記述が正しければ、岸岳城の築城者は持であり、築城時期は平安時代末期ということになる。

直と持の父親は鬼子岳城の伝説で登場した渡辺(松浦)久。

持は波多姓を名乗り、その子孫が戦国時代に滅亡するまでの400年間、岸岳城を居城とした。

 

岸岳城

波多氏の系譜は不明瞭で確かなことは分かっていない。

北波多郷土誌で波多氏について触れている箇所を引用して整理する。

波多氏の五代源太夫照筑前長者原にて戰死、繼嗣絶へたるを以て本宗松浦遶の子直を迎へ波多氏を繼かしむ。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 七、松浦黨の分布より

波多氏の五代目・源太夫照が筑前の長者原で戦死。後継ぎがいなかったため宗家の松浦遶の子供、直を迎え波多氏を継がさせる。

松浦叢書の松浦家世傳によると『渡辺(松浦)久→持→親→勇…此間凡百三四十年闕…重→永→泰→興→盛→信時→某』とあり波多勇から波多重までの約130~140年の代が欠けていることが分かる。また松浦遶は渡辺(松浦)久の長子・直の孫に当たる人物。

源光寺所蔵の松浦党系譜には『渡辺(松浦)久→披→貢→持→親→至→重→照…』とある。持を波多氏の祖とすれば確かに照は五代目となる。照の項に『筑前國長野(ママ)原ニ戰死』とあるので引用文は源光寺所蔵を参考にしたのかと思ったが、続いて『松浦二郎遶之子』と書かれていたため非常に混乱した。

『筑前長者原にて戰死』が南北朝時代に菊池氏と少弐氏が争った長者原の戦いを指すのであれば時代は14世紀半ばだろう。

てな感じで幾つかの家譜が存在し、それぞれ内容の異なった箇所があるため煩雑な状態になっているのである。

 

南北朝時代の波多氏

岸岳城

上松浦波多は其の祖源次太夫持の子源太親の弟來は、鶴田六郎と稱し、次弟至は鴨打源三郎と稱し、親の次子進は八並八郎と稱し各家に分流されしが、親の長子太郎下野守勇、文永、弘安の役に功あり、延元元年尊氏九州に沒落の際は鬼子嶽城に源三郎繁あり、

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一〇、延元時代松浦黨の嚮背態度より

上松浦の波多氏はその祖先の持の子である親の弟・来は鶴田六郎、次の弟・至は鴨打源三郎、親の次子・進は八並八郎と称しそれぞれ分家した。
親の長子・勇は文永、弘安の役で功績を得た。延元元年(1336)、足利尊氏が九州に落ち延びたとき、鬼子岳城には繁がいた。

波多勇が文永、弘安の役(元寇)で活躍。そして足利尊氏が九州に逃げ隠れたとき岸岳城の城主は波多繁だったという内容。

文永の役は1274年、弘安の役は1281年ですから波多勇が生きた時代は13世紀半ばから14世紀の初め辺りであろう。

後醍醐天皇に反逆して新田義貞や楠木正成に追われ九州へ敗走した足利尊氏。

九州の豪族たちは『天皇or尊氏』の選択に迫られ、下松浦の諸族は尊氏の味方に付いた。

岸岳城の城主・波多繁は『天皇に逆らうとは何事か?!』と尊氏と対峙したが、同族に説得され降伏したとある。

 

岸岳城

延元三年より四年に及ぼし本家松浦淸(十五世)は足利の命を受け一色探題に屬し、波多源二太夫重も亦足利直義に謁見して各態度を定めたれば、肥前國は松浦黨の一部を除きて足利に附隨したり。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一〇、延元時代松浦黨の嚮背態度より

延元3年(1338)より4年に及ぼし本家の松浦淸(十五世)は室町幕府の命令を受け一色探題に属し、波多重もまた足利直義(尊氏の弟)に謁見して態度を定めれば、肥前国は松浦党の一部を除いて室町幕府に附隨した。

松浦党の殆どが室町幕府に従ったと記されていた。

気になったのは『波多源二太夫重』。

系譜上、波多勇の後は波多重になっているけれど、両者の間は130~140年の空白があると記されていたはず…。

勇が元寇来襲(1274年、1281年)の頃に生きた人物だとして、重が足利直義に謁見したのは室町幕府が創設された1336年頃。

100年も経っていない。

同系列に重が二人いたのか?謁見したのは重じゃない別の誰かなのか?もう、わけがわからない。

ちょっと混乱したが、次頁を開いて落ち着きを取り戻した。

編者曰、波多氏の系譜には源三郎繁の名見へず、前記源二太夫重と略々年代を同じふせるより見て、同一人か若くば傍流關係を有する者にあらざるか。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一〇、延元時代松浦黨の嚮背態度より

編者が言うには、波多氏の系譜には繁の名前は見当たらない。前に記した重とほぼ同じ年代にしたのを見て、同一人物か若しくは傍流関係の者ではないか。
いちのまる
いちのまる

結局よくわからんってことだね。

岸岳城

後龜山天皇文中三年本宗松浦直(一名定と稱す十六世)は宗族と共に足利義滿に屬する事となり、元中三年宗族全部の第一回會盟を開き、松浦黨の旗幟を詳明にせしが、更に同四年第二回の會盟を開き、血書を作製して室町將軍に屬する決議を申明せり。

波多下野守重は右會盟書の初筆に署名血判し、以下四十八之に傚る。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一一、松浦黨の會盟より

後亀山天皇文中3年(1374)、本宗松浦直(16世で定とも称す)は一族と共に足利義満(室町幕府3代目)の属することとなり、元中3年(1386)に一族全部の第1回会盟を開き、松浦党の立場を明らかにしたが、更に同4年に第2回の会盟を開き、血書を作って室町将軍に属する決議を表明した。
波多重は右の会盟書に一番初めに署名血判をし、以下48名これに倣う。

松浦党は室町幕府に従う方針で事を進めた。

しかし一族の中に刃向かう派閥があったのかもしれない。

上記は『それでは困る!』ということで全体会議を開き、松浦党の立場を明確に示した場面だろう。

波多重が会盟書に初筆を入れる。これは松浦党内部での波多氏の影響力の強さを表す重要な記述である。

 

倭寇と松浦党

岸岳城

明德、應永の頃に至り、松浦黨は韓半島に對する暴徒の侵略を制止して正當の貿易を獎勵せしものゝ如し。

海東諸國記によれば、李氏朝鮮の頃に入りては大小の松浦諸豪は、或は對馬島主宗氏の仲介により、或は直接彼土に渡航し、彼の許諾を得て年々の通商船を一、二艘の限定によりて渡船せしめ、各貿易の利を收めし事左記に徴して知るべし。

源泰は戌子年來朝す、其の書に肥前州上松浦波多下野守源泰と稱す、宗貞國の請により接待す、其の居波多に在り、麾下の兵を有す云々。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一二、松浦黨の朝鮮貿易と侵畧より

明徳(1390~1394)、応永(1394~1428)の頃に至り、松浦党は朝鮮半島に対する暴徒の侵略を制止して正当な貿易を奨励したようである。
海東諸国記(李氏朝鮮が日本について書いた歴史書)によれば、李氏朝鮮の頃に入ってから大小の松浦諸豪は、対馬の宗氏の仲介、或いは直接渡航し、李氏朝鮮の許可を得て年々の通商船を一、二艘の限定で渡らせた。各貿易が利を収めたこと左記に照らし合わせるとよい。
源泰は戌子年(1468?)に来朝した。その書に肥前州上松浦波多下野守源泰と称されている。宗貞国の願いにより接待する。その居は波多に在り、麾下の兵を有する云々。

『韓半島に對する暴徒の侵略』は所謂、倭寇(前期)の事。

松浦党も多かれ少なかれ関わっていたと云う。

倭寇に対する取り締まりが強化され、朝鮮半島と正当な貿易が交わされると一部の松浦党の頭領らが直接半島へ赴き、外交を行うようになった。

 

波多家の掟書

岸岳城

波多家掟書

一、此度觸出狀の趣、近頃は武士の風俗別て惡敷相成、利、法、劍の三字不用、我儘にて權威を振ひ、偏く信を忘候事 侍の不成本意候 急度可相愼事

一、變作の節百姓町家の者共、其の家々相應に合力有之、且又不自愛の輩は、其の家株に相離候間、其の組合より可被致吟味候事

一、近頃寺僧の面々、別で出家に不似不如法にて以ての外不届成事にて候、出家は其の寺の寺役第一にて、慈悲善根可用候、此の上不如法無之樣、急度相嗜可被申候

一、大小宮合 一百二十四ケ所

一、大小寺院 甲乙諸司、無官有官、村々院々迄急度相愼可被候

天文四年乙末四月 畠 好

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一三、波多氏の掟書より

波多家掟書

一、この度触状を出した訳、近頃は武士の習慣がとりわけ悪い状態にある。利、法、剣の三字は役に立たず、わがままに権威を振るい、偏って信を忘れている。侍の本意ではない。すぐに慎むべきこと。

一、変作(凶作の意?)の節、百姓や商人の者共、その家々は相応に力を合せるこれ有り。且つ又不自愛の輩は、その土地に離れるので、その組合が吟味致されること。(ちょっとわからない…。)

一、近頃、僧侶の面々、出家して戒律を守らないなど以ての外でけしからん。出家はその寺の仕事の第一であり、慈悲深く善行につとめ、戒律を破らないよう、すぐに心がけなさい。

一、大小宮合 一百二十四ケ所

一、大小の寺院 甲乙の諸司、官の無い者、有る者、皆早急に慎むように。

天文4年乙末(1535)4月 畠 好

いちのまる
いちのまる

すみません…。まともに訳せませんでした。

訳は滅茶苦茶だが、領地の風紀が乱れていたので『みんな、びしっとしようぜ!』と注意喚起する文書だということは理解出来た。

畠(波多)好は天文4年(1535)時の鬼子岳城主とある。

恐らく波多興(こう)のことだと思われる。

 

内訌による衰退

岸岳城

編者曰、波多家の繼嗣問題をめぐり、後室對日高の確執と同じく後室、鶴田、有浦の訌爭とは別箇の事件として共に松浦拾風土記に輯錄せるもの、而かも其の經緯に兩者共通若しくば混同せる如き點あるは不審なり。

果たして同一問題につき兩者の訌爭ありしが、或は同一事件を二樣に誤傳せられしものか、今其の眞相を知るに由なければ、霎らく古文書の傳ふるが儘別箇の事件として抄録せり。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一四、波多家繼嗣問題内訌

編者が言うには、波多家の後継ぎ問題をめぐり、後室vs日高の確執と同じく後室vs鶴田・有浦の内乱とは別の事件として松浦拾風土記に集録されているもの、しかもその経緯に共通、もしくは混同させるような点があるのは怪しい。
果たして同一問題につき両者の内乱が記されているのか、或いは同一事件を二つの事件に誤伝されたものか、今その真相を知る手段がないので、しばらくは古文書の伝えるままに別の事件として抜き書きしている。

この内訌問題について語ると長くなるので簡単に紹介して詳細は割愛する。

波多氏の全盛期を築いた波多興が亡くなり、後継ぎに選ばれた波多盛は嗣子を残さず急死してしまう。

後室は有馬氏から養子を取って内外盤石にするべきだと考えたが、有力な家臣は盛の弟から選ぶのが得策だと画策。

これが火種となって殺し合い&城の奪い合いの内乱に発展!

最終的に有馬氏からの養子・親が跡を継ぎ内乱は終わったけれども、ズタボロになった波多氏のその後は如何に…。

という感じ。

 

龍造寺氏との結びつき

岸岳城

さて其の後室は龍造寺隆信の養女安子姫(後ち秀の前とよぶ)とて、美貌と貞淑とを兼ね、後年豊太閤が朝鮮征伐の爲め名護屋の假城に出陣中、哀腕悲壯なる情史を傳へて波多氏沒落の禍因をつくりし事後章に敍説する所たり。

(中略)

三河守に實子なく隆信の孫(政信の子)孫三郎を迎へ繼嗣と定め、龍家との和親益々緊密を加ふ。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一六、波多氏、龍造寺氏と姻戚を結ぶ

さて、波多親の後室は龍造寺隆信の養女である安子姫で、美貌と貞淑とを兼ね備え、後年に豊臣秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城に出陣中、あわれで美しく悲壮な情史を伝えて波多氏没落の原因を作ったことは後章で語るところである。

(中略)

波多親に実子はなく隆信の孫を迎え後継ぎと定め、龍造寺氏との仲を益々緊密にした。

戦国時代の終わり頃になると、九州地方は肥前の龍造寺氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏の三大勢力が覇権を狙う情勢になっていた。

当然、弱小勢力は我関せずという訳にはいかず、どこかの勢力をバックに付けて、戦争が起きれば同盟、或いは従属する国に従い戦わなければならなかった。

波多氏は同じ肥前国で頭角を現した龍造寺氏に近づき政略結婚を結ぶ。

しかし、1584年(天正12)に起きた沖田畷の戦いで龍造寺隆信がまさかの戦死を遂げると、龍造寺氏は島津氏に従うしかなく傘下の者共も同様に島津氏に従属した。

これと同時期に波多親は筑前・高祖山城の原田信種とつまらない理由で合戦をおっぱじめ敗北している。この戦いを鹿家合戦と言う。

 

波多氏の滅亡

岸岳城

文祿年間豊臣秀吉朝鮮征伐の軍を起し、肥前國名護屋城に下向の砌り、九州の各諸侯擧つて筑前博多の津に迎ふ。偶々波多三河守遲參の不首尾あり、秀吉いたく不興の氣色なりしかば、鍋島加賀守の執成にて其の節はその儘に濟されしが、後ち三河守參着して御前に出でしも何の御意もなく手持無沙汰にて退出せり。

其の後淺野、石田の諸將を介して首尾を繕はんとせしも、終に獨自の御目見得もなく朝鮮より歸陣の上何分の御沙汰あるべく仰せ渡されたり、斯はかねて波多氏を改易の上其の領地を寵臣等寺澤志摩守に與へんとの下心ありし爲なりき。

北波多郷土誌 第一章 土豪時代 一八、波多氏沒落の次第

文禄年間(1593~1596)豊臣秀吉は朝鮮出兵の軍を起こし、肥前国名護屋城に下向されたとき、九州の諸侯は博多の津で秀吉を迎える。
たまたま波多親は遅参の不首尾があり、秀吉はかなり不機嫌になったけれど、鍋島直茂の執り成しによってその場は何事もなく済んだが、後に波多親が到着して秀吉の前に出ても何の考えもなく手持ち無沙汰で退出してしまった。
その後、浅野長政、石田三成の諸将を通して事を繕おうとしたが、遂にこの件に関しての御目通りはなく朝鮮より帰って来てから指示があるとお言葉をいただき、これは予てから波多氏を改易して領地を寵臣等、寺沢広高に与える下心があった為である。

群雄割拠の九州地方は天下人・豊臣秀吉によって統一された。

小田原征伐、奥羽仕置を終え天下統一を成し遂げると、秀吉は全国の大名を動員して新天地を目指した。

朝鮮出兵である。

さて、波多氏はどうなったか?

九州の諸侯が秀吉をお迎えする中、波多親は遅刻して、秀吉の気分を害してしまったらしい。

到着した親は謝罪もなしにこの件を放置。後からオロオロして浅野長政や石田三成を通じて許してもらうように哀願するが、無念。許されず改易されてしまった。

波多親の最後には様々な説が残っている。

北波多郷土誌によると、『朝鮮で活躍したにも拘らず改易処分』『朝鮮で怯懦な振る舞いをして改易処分』『朝鮮で戦死した』など。

改易後は関東の徳川家康のもとに送られ、後に茨城県筑波山へ配流処分となった。松浦に戻り天寿を全うしたという説もある。

こうして岸岳城を居城とし、上松浦の実質TOPであった波多氏は滅亡した。

この地を与えられた寺沢広高が沿岸部に唐津城を築いたため、必要の無くなった岸岳城は廃城となった。

 

鬼子嶽末孫!心霊スポットの噂について

岸岳城

この写真は岸岳城累代の菩提所だった瑞巌寺跡。

堂の右側前面の圓山に散在せる無數の輪塔は、三河守謫地にて薨去の報を聞きて、壯烈なる殉死を遂げたる家臣數十士の墳墓と傳へられ、其の時の辭世と稱せるもの數十首を松浦拾風土記に收錄せり。

(中略)

以上の外辭世なきものを合せ七十七士の本名並に法號を列記し。

北波多郷土誌 第五章 史跡 三、瑞嚴寺跡

お堂の右側前面の丸山に散らばる無数の輪塔は、波多親が配流地で亡くなった報告を聞いて、壮烈な殉死を遂げた家臣數十名の墓石と伝えられ、その時の辞世の句と称されるもの数十首が松浦拾風土記に収録されている。

(中略)

以上の他、辞世なきものを合せて77士の本名、並びに法号を列記されている。

 

岸岳城

殉死者によって残されたという辞世の句の多くは、主家を滅ぼした豊臣秀吉と寺沢父子に対する怨みに染まっている。

『鬼子岳末孫』

現地の方々は瑞巌寺跡の輪塔群を『末孫様』と呼び、雑な扱いをすると祟りに遭うと言い伝えている。

波多氏の呪詛は今も尚、続いているのだろうか?

岸岳城が心霊スポットだと言われる所以は鬼子岳末孫で間違いないのだが、家臣の殉死は恐らくなかったと考えられている。

北波多郷土誌では『辞世の句の内容がしょぼすぎる。一人の人が造ったのでは。』『殉死の日が波多親が亡くなったとされる日にちと同日。しかも親は帰郷したという説もある。』と大層怪しんでいる。

『末孫(ばっそん)話』の一つだが、検証していくと、江戸時代後期、意図的に生み出された伝説だと分かる。

『藩による増税に領民が対抗するためだった』。唐津の近世史を研究する相知市民センター総務教育課の黒田裕一さん(50)は末孫話をこう読み解く。

西日本新聞 『末孫話』は増税対抗策 滅亡の波多氏 秀吉への恨み伝説 江戸後期、意図的に誕生 識者『家臣の殉死なかった』より

ともある。

鬼子嶽末孫は怪談話として興味深いのだが、現実を見ると途端につまらなくなる。

まぁ、こんなもんだろう。

 

岸岳城

写真は岸岳城の端に位置する『姫落とし』と呼ばれる場所。断崖絶壁で落ちたらまず助からない。

波多親の前妻・心月が何らかの理由でここから転落死したという伝説が残る。

と言うものの、これに関する史料は皆無なので、あくまで伝説。

これも岸岳城が曰く付きの場所とされる所以の一つかもしれない。

 

終わりに

岸岳城

以上が岸岳城、及び松浦党・波多氏の歴史についてであった。

いちのまる
いちのまる

どうでもいい話なんだが『岸岳末孫』は平坦な字面で怖くないけど『鬼子嶽末孫』になると途端に禍々しいというか、凄みが出ませんか?

ここまで長文を読んでいただきとても嬉しく思う。ありがとう!

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