源為朝の伝説が残る心霊スポット・五万ヶ池について

五万ヶ池

五万ヶ池は、鎮西山一帯が町民憩いの森として整備されるまで、屋形原地区の農業用水の溜池として利用されてきたが、ここにも源為朝にちなんだ伝説が残っている。

上峰町教育委員会 五万ヶ池より

佐賀県三養基郡上峰町、鎮西山の中腹にある五万ヶ池(ごまがいけ)。

何の変哲もない小さな池に見えるが、どういう訳か曰く付きの場所として知られている。

一体、ここで何があったのか?

 

五万ヶ池の場所

五万ヶ池

県道46号線を北上し長崎自動車道の高架下を潜った先にある『鎮西山入口』の看板を右折。

突き当りまで進むと写真の石碑がある駐車場に到着する。そこから徒歩で3分も掛からない所に五万ヶ池はある。

鎮西山城がすぐ近くにあるので一緒に散策するといいだろう。

 

五万ヶ池について

五万ヶ池

本当に小さな池である。

山の中腹にあるといっても、鎮西山は標高200mほどの低山で都市部からもそれほど離れていない。

心霊スポットの根拠となる事件や事故が発生していないか過去の新聞を漁ってみるが…。

山菜を採取するため鎮西山に入った女性がプチ遭難。嘱託警察犬の『アリス号』が匂いを頼りに雑木林でうずくまる女性を発見し救出。その後、県警から感謝状を渡された。

という事件だけしか見つからなかった。

噂の根拠は事件や事故ではなく、どうやら五万ヶ池の由来にありそうだ。

 

五万ヶ池の伝説

五万ヶ池

あるとき、鎮西城の為朝を攻めた敵の軍勢、騎馬五万騎余りが、この池あたりで為朝の軍に討たれたと伝えられているところから、この池の名前が名付けられたという伝説である。

上峰町教育委員会 五万ヶ池より

五万ヶ池から徒歩数分のところに鎮西山城はある。五万ヶ池も鎮西山城の一部になる。

源為朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父に当たる人物。

手が付けられない程の荒くれ者だったため、若かりし頃に九州へ流されるが、勇猛果敢な為朝は兵を招集し忽ちに九州地方を制覇したという。

この他にも黒髪山に住み着く大蛇を退治したなど、数多くの伝説が残る、興趣が尽きない御方なのである。

 

五万ヶ池

鎮西山城は源為朝が居城だったという言い伝えがある。

かくて爲朝九國に威勢つよく東肥前に屋形を立て居住し(今の屋形原也)士をなて民をすくひ給へいなひかぬ草木もなかりけり

肥陽軍記 卷之一 肥前國龍造寺家傳説事より

こうして源為朝は九州で威勢つよく、東肥前に屋形を建て居住し、兵士を大事にし民衆を救われた。なびかぬ草木もないのだなぁ。

為朝が居館を建てた場所が現在の屋形原、つまり鎮西山の南麓に当たる。

さて、為朝は五万ヶ池の辺りで50000人の兵を討ち取ったと言うが、そんなことあり得ようか?

そうであるならば鎮西山城の本城直下まで攻め込まれているということになり、落城必至である。

別の城から援軍として来襲しギリギリのところで敵を滅ぼしたという可能性も考えられるか…。

まぁ、いくら可能性を想像したところで答えはわからないだろうから変な推敲はもう止めておこう。

 

五万ヶ池

屋形原村の北方、鎮西山(二〇一メートル)にある中世の山城跡。

山上に塁壁の遺構があり、南麓の屋形原には居館跡といわれる所がある。

一名『ごまがい城』といい、『肥陽軍記』には鎮西八郎為朝の居城としているが、伝えられる合戦の規模から推せば、日向太郎の居城とするのが妥当であろう。

平凡社 発行 佐賀の地名 上峰村 鎮西山跡より

だそうだ。

日向太郎については源平盛衰記に名前が出ているので引用する。

平治元年ノ比。肥前国ノ住人。日向太郎通良。野心ヲ挾テ。朝威ヲ傾ケントスル聞エアリシカバ。可追討之由。清盛朝臣ニ被仰下。勅命ヲ蒙テ、筑後守家貞ヲ召テ申含ム。家貞西府ニ下向シテ。通良ガ城ニ押寄テ。度々ノ合戰ニ及ブ。城モ究竟ノ城也。主モ勇者成ケレバ。輙ク落ザリケレ共。月ヲ隔日ヲ重テハ。官兵ハ雲如ニ集リケレバ。賊徒ハ。霧ノ如ニ散りケリ。永暦元年四月ニ。通良以下ノ黨類。三百三十五人討取之由。

源平盛衰記 日向太郎通良懸頸事

平治元年の頃(1159)、肥前国の住人、日向太郎通良が野心を抱いて朝廷の威光を傾けようとする話が聞こえたので、これを追討すべきという経緯になる。
平清盛に命令が下され、勅命をいただいて、平家貞を呼んで承知させる。家貞は西府(大宰府?)に下向して、日向通良の城に押し寄せて、幾度かの合戦に及ぶ。
城も極めて優れた城である。城主も勇者なので容易く落城しないけれども、月を隔て日を重ねては、官軍は雲の如く集まれば、賊徒は霧のように散っていった。
永暦元年(1160)4月に、日向通良以下の徒党は335人討ち取られた。

日向通良と源為朝はほぼ同時期の人物である。

日向氏は肥前国に相当な領地を持っていた豪族で、理由は不明であるが、朝廷に反逆し平清盛の家臣・平家貞に討ち取られている。

『通良ガ城ニ押寄テ。度々ノ合戰ニ及ブ。城モ究竟ノ城也。主モ勇者成ケレバ。輙ク落ザリケレ共。月ヲ隔日ヲ重テハ。官兵ハ雲如ニ集リケレバ。』

日向通良は優秀な武将で、その城は堅城。しかし官軍は数の力で襲い掛かり通良を討ち取ったというわけだ。

通良の城は綾部城、或いは鎮西山城と云われているらしい。とすると『50000万の兵を五万ヶ池で破ったという伝説は源為朝ではなく日向通良に関するものなのではないか?』という話になってくる。(この場合、逆に討ち取られてしまったのだが…。)

 

五万ヶ池

1994年の佐賀新聞にこうある。

佐賀の為朝伝説は日向通良の反乱を伝えるものと考える。

さらに、この背景に、平氏の肥前国での荘園の獲得活動があることを指摘したい。この時期、平氏の鎮西支配の強化が図られ、清盛は乱平定後、杵島郡に「大功田」を与えられる。ここで獲得された広大な長島庄は日向氏の所領跡であり、為朝の黒髪山大蛇退治伝説の舞台でもある。

すなわち、平氏は日向通良の反乱を平定することによって荘園を得るが、そのことを直接訴えられない状況が為朝伝説を生んだと考えられる。

新さが歴史発見(41)〈為朝伝説を探る〉実態は日向通良通良の反乱 佐賀新聞 特集記事より

日向氏の一族や旧臣、民衆は有力な豪族であった英雄・日向通良の名を残したかったが、政権交代によりそれが難しくなった。

故に源為朝の名を借り、後世に伝説を残したのではないかと記事には書かれていた。

 

終わりに

五万ヶ池

大昔、五万ヶ池周辺で激しい合戦が行われた可能性はある。もう850年も前の事だ。

もしここに霊が出るとしたら落ち武者の風貌が相応しいと思う。

果たして、霊に寿命はないのだろうか?

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