上州の黄斑こと長野業正が死守した箕輪城へ!武田信玄との壮絶な戦いの末に…。

箕輪城

箕輪城は、明応、永正年間(一四九二~一五二一)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政(ママ)により強化された。

現地石碑より(昭和五十七年一月 箕輪城跡保存会)

長野氏は平城天皇(774年~824年)の第一皇子・阿保親王の五男・在原業平の後裔と伝わるが、これは伝説の域を出ない。

箕輪城の築城者は長野尚業、或いは憲業(信業)とも云われている。

戦国時代には西上野(群馬の西)を狙う武田信玄と箕輪城主、長野業正が激しい戦いを繰り返した。

今回は『箕輪城の歴史』と『上州の黄斑こと長野業正』を簡単に紹介する。

また、ここには心霊スポットの噂があるようなので歴史を調べるついでに考えてみようと思う。

 

箕輪城

室町時代後期、長野氏は関東管領の山内上杉氏に従っていた。

関東管領・上杉憲政は北条氏康と武田信玄に虐げられため越後の上杉謙信を頼り関東から逃げ落ちている。

その際、西上野の豪族らは後北条氏に追従する動きを見せたが、長野業正は元主人の憲政に義理を立て後北条氏に従属しなかったと云う。

武田氏、後北条氏、今川氏の間で甲相駿三国同盟が組まれると、後北条氏の要請を受けた武田信玄が西上野の侵攻を開始する。

業正は上野国人衆2万の兵を集め、武田氏の侵攻に抵抗。

緒戦は瓶尻(みかじり)という場所で行われたらしい。(現・安中市、妙義山の周辺と云われている。)

瓶尻の戦いは武田軍の勝利に終わり、業正は殿を務め箕輪城に籠城。

ここから老将・長野業正が意地の戦いを見せる。

信玄は籠城する業正を執拗に攻撃するが…。

城に籠った業正は強かった。

早朝や深夜に奇襲攻撃を仕掛け武田軍を蹴散らし、6回、或いは9回もの攻撃を見事に捌き切ったと伝わる。

しかし、業正も寿命には勝てず帰らぬ人に。71歳、若しくは63歳で没した。

業正が後継ぎの業盛に残した言葉は以下のような内容だったと云う。

『わしが死んだら一里塚と変わらないような墓でいい。法要なんてしなくていい。 敵の首を供えよ。絶対降伏するな。するくらいなら潔く死ね。それこそが私に対する孝行だ。』

業正死亡の報を受けた武田信玄は嬉々として西上野侵攻を再開。

息子の業盛も信玄相手に奮戦したが、最後は追い詰められ業正の遺言通り潔く自決した。(一回は防衛成功している。)

 

箕輪城

その後、箕輪城は武田家臣の内藤昌豊が入城、武田氏が滅亡すると織田信長の家臣である滝川一益に与えられている。

1582年、織田信長が本能寺の変で死去すると、今度は後北条氏が滝川一益を攻め、箕輪城を攻略。

1590年、後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると徳川家康が関東に入り家臣の井伊直正が箕輪城に入城。

井伊直正は高崎城に居城を移し、箕輪城はそのまま廃城になった。

 

長野業正と真田幸隆 逸話その一

長野業正と真田幸隆の関係を表す逸話が残っている。

真田幸隆は六文銭で有名な信州真田氏の礎を築いた人物で、真田昌幸の父、信之・幸村の祖父に当たる。

今から紹介する2つの逸話は江戸後期~明治に書かれた『名将言行録』を参考にした。
『名将言行録』は信憑性が薄い史料なので、真に受けないで欲しい。
でも、ロマンがあって面白い話だと私は思う。

長野県東御市の豪族、海野一族出身の真田幸隆は、信濃へ侵攻してきた武田信虎、村上義清軍に海野平の戦いで敗北し所領を一時期失う。

その際に長野業正を頼りしばらく世話になったという逸話が残っている。

真田幸隆は山本勘助に武田信玄を紹介されたため、こっそりと業正のもとを去ろうと一計を案じる。

幸隆は『病気になって働けないから少し休ませてください。』と家に籠り逃げる準備をする。

すると突然、長野業正の使者がやってきて『病気を治すために薬を探しにいかれよ。』と伝言し馬を与えたと云う。

『あっ?もしかしてバレてる?』と考えた真田幸隆は『しんどいので薬なんて探しにいけません。』と伝達するが、長野業正に『うるさい!はよ、いけや!』と急かされ、止む無くその日に信州に向けて出発(逃走)した。

脱出には成功したが、何もかも捨て置いてきた幸隆。

しばらくすると背後に人影が…。

『追手か…。万事休す。』

振り向くと何故か妻子と部下の姿が。ついでに家具付きで。

使者から手紙を渡されます。

『幸隆君へ。武田信玄は若く優秀な男だ。だがしかし、わしが箕輪にいる限りは碓氷川を越えて馬に草を食わせられると思うなよ。業正より』

全て見抜かれていたことに真田幸隆は呆然と立ち尽くした。

 

長野業正と真田幸隆 逸話その二

もう一つの逸話。

長野業正の晩年、真田幸隆が見舞いに赴く。

業正:『お前すごいな。武田に行ってからの活躍お見事!箕輪も近いうちに取られそうだ。わしもそろそろ死にそうだし。そうだ昔のよしみでいいこと教えてやろう。』

幸隆:『なんでしょう?』

業正:『この辺りを攻略するなら、まずは吾妻を抜けて利根方面を攻めるといい。沼田は隙だらけだ。』

幸隆:『誰の所領ですか?』

業正:『沼田顕泰だ。あそこは相続争いで家中が乱れてるからな。わしがやってもいいけど多分間に合わず死ぬ。かといってうちの息子では荷が重い。』

幸隆:『で…では、いつか沼田を落としてみせましょう。』

と感謝し業正のもとを去った。

後世、沼田城は真田氏の居城となる。

 

終わりに

箕輪城

武田信玄が大擧して來り侵し諸城を屠つて遂に箕輪をも圍んだ。そこで防戰大に力め、城主業盛さへ身に數創を被るほどであつたが、援軍のない孤城とて如何ともしがたく、殘兵を集めて最後の酒を酌みかはし、持佛堂に入つて父祖の靈牌を拜し、心しづかに自刃した。行年十九、夫人長尾氏節を守つて信玄に殺された。

群馬縣敎育會 鄕土讀本 箕輪城懐古より

箕輪城の落城シーンである。

春風に梅も桜も散り果てて、名のみぞ残る箕輪の里かな

この落城によってどれだけの人間が亡くなったのかはわからない。

業盛は上の辞世の句を詠み、父・業正の遺言通り潔く死んだ。

箕輪城が曰く付きの場所と噂される理由は、これぐらいしか見つからなかった。

コメント

  1. 上総 より:

    最近、訪問しました。
    智将、幸隆の上をいくようなエピソードは知らなかったです。
    業正、業盛ともに有能な配下の武将も多く、
    人望や、人材育成にも長けていたのかなと推察しました。
    信玄の下で自分達を活かす選択があればなぁ~と思いました。

    • いちのまる より:

      上総さん

      門が出来たと聞きました。

      周辺の豪族をまとめて箕輪城を守ったのですから、人望のある武将だったのでしょう。
      長野家臣の剣聖・上泉信綱も武田信玄の誘いを断ったそうなので、西上野で信玄は嫌われていたのかもしれませんね。

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