新田金山城に幽霊が出る?!歴史を振り返り、その根拠を探ってみた!

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新田金山城

戰國時代に、佐野の唐澤山、新田の金山、佐竹の太田山を三山城といひ、忍、宇都宮、川越、厩橋を四平城といひ、合せて之を關東の七名城といひました。

梅軒学人 編 金山及大光院:太田名蹟より

関東七名城の一つ、新田金山城。

最高丘、本丸跡地に新田義貞公を祀る新田神社が鎮座する。

神格化された義貞公が私たちを見守る神聖な場所であるというのに、どういう訳か心霊スポットだと紹介されることがある。

何か理由はあるのだろうか?

新田金山城の歴史を振り返っていこう。

新田金山城の歴史

新田金山城

尓比多夜麻 祢尓波都可奈那 和尓余曽利 波之奈流兒良師 安夜尓可奈思

万葉集 巻14-3408より

新田山 嶺にはつかなな 我に寄そり はしなる児らし あやに愛しも
ゆう
ゆう

新田山の嶺が単独であるように、誰とも寝ないで、わたしと噂になっても曖昧な態度のあの娘がなんとも可愛いものだ。

 

志良登保布 乎尓比多夜麻乃 毛流夜麻乃 宇良賀礼勢奈 登許波尓毛我母

しらとほふ 小新田山の 守る山の うら枯れせなな 常葉にもがも
れい
れい

小新田山は山守に管理されている。
木々の梢が枯れることなく、これからもずっと青々として欲しい

日本最古の歌集・万葉集に新田山(金山)の風景が描かれている。

金山は大昔から当地の住民にとってシンボル的な山だったことが窺える。

 

新田金山城

鎌倉時代に新田義重が茲に居住したとあり、又吉野時代忠臣新田義貞公が築城の企あつたと傳へてゐとある。

群馬県下国宝並指定史蹟名勝天然紀念物 史蹟 金山城阯より

言い伝えでは新田義貞が金山城の築城に関わったとされるが、この頃の史料は残っておらず、築城年代は不明である。

 

文明元年己丑二月二十五日金山城事始源慶院殿爲御代官愚僧立鑊始地鎭之次第上古之城郭保護記爲證之地鎭之儀式供天神地祇七十餘日普請斷絶走廻九字幷以二二大王之守護所也與取堅也大槩造功畢

松陰私語 第四 文明元年丑二月二十五日金山城執立事より

難解で訳せなかった。

文明元年(1469)2月25日に源慶(岩松家純)の顧問僧・松陰が金山城の地鎮祭を執り行う様子が書かれているのだと思う。

同年8月に当城の造立を祝う会が開かれている。

金山城がこのとき築城されたのであれば築城者は岩松家純となるが、既成の城を改築した可能性もあり得る。

 

新田金山城

岩松家純は新田氏の一族である。

岩松氏は少々複雑な家柄で元々は足利氏の血縁であったが、先祖の岩松時兼が父親に勘当されたため新田氏を名乗るようになった。

新田氏、足利氏ともに由緒ある血筋で、元を辿れば清和源氏(清和天皇)に行き着く。

家純の後継者である尚純は、筆頭家臣の横瀬氏の勢力を抑えきれず、隠居されられてしまう。

横瀬氏は尚純の子・昌純を擁立し岩松氏を傀儡化させ、横瀬成繁の代に金山城を奪い取り下尅上を果たした。

大名家へと出世した横瀬成繁は後に由良氏を名乗っている。

横瀬氏(由良氏)も岩松氏と同様に新田氏の一族だという説がある。

新しく金山城の城主になった由良氏は立地上、甲斐の武田氏・越後の上杉氏・相模の後北条氏といった強豪に囲まれ、時には攻められることもあったが、外交を駆使し生き残りに苦心した。

成繁の後を継いだ国繁は後北条氏に従い金山城を明け渡し柄杓山城(桐生城)に本拠を移している。

1587年(天正15)、国繁は常陸国の佐竹義重に通じ後北条氏を裏切ってしまう。

この戦いで敗北し国繁と弟の顕長は城を没収され、小田原城に幽閉されている。

 

新田金山城

1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、小田原城に幽閉された国繁の選択肢は後北条氏の味方になるしか無かった。

小田原征伐により後北条氏は滅亡する。

止む負えない理由があったにせよ国繁は豊臣秀吉に敵対した。

しかし、大した罪に問われず茨城県の牛久に所領を安堵されている。

これは国繁の母親・赤井輝子(妙印尼)の功績があったからである。

彼女は70代後半という高齢にも拘わらず孫の由良貞繁を擁立し、豊臣方の前田利家に内通し松井田城攻めなどで活躍した。

同年、徳川家康が関東に封じられ重臣の榊原康政が館林に入り一帯を治めた。

この時期に金山城は廃城になったと伝わる。

 

新田金山城

明治六年五月新田俊純、横瀬定篤、新田貞善等外十四名の士相圖りて義貞の忠烈を顯はさんとして地を金山の頂巓に卜し社殿建設の事を請(?)願す

仝六年八月早くも栃木縣の許可を得

仝七年春當時政路の要に居りたる三條公、井上卿の賛助を得て

仝八年三月社殿こヽに竣る、同月十二日新田神社の稱號を許され二十三日靈鎭祭あり、栃木縣令代理參拜

今泉訓太郎 編 明治44年発行 金山より

明治8年(1875)に新田神社が創立。

この頃、金山は群馬県ではなく栃木県の管轄にあったようだ。

後に群馬県に編入された。

心霊スポットの根拠

新田金山城

金山城の歴史を振り返ってみたが、心霊スポットの根拠となるような暗い過去は見られなかった。

強いて言えば戦国時代に起きた籠城戦くらいだろうか。当然、戦死者は出ている。

ただ、日本全国にこのレベルの古戦場は散らばっており数多の兵士が戦死している。

特に印象的な事柄が記録に残っていない限り、心霊スポットの根拠としては弱い気がする。

もしかすると、現代に発生した事件や事故が関係しているのかもしれないと、G-Searchデータベースサービスで『金山 事故』『金山 事件』『金山 自殺』などを検索してみた。

・1989年2月の朝日新聞
金山の山林で女性の遺体が発見されている。
犯人は和歌山県の海岸で投身自殺した。(自殺の名所・三段壁であろうか?)
・1995年1月の毎日新聞
金山の大光院の境内にあった露店テントで男性が首を吊って亡くなっていた。
・1998年5月の朝日新聞
金山で40代女性の人骨が見つかる。
・2001年4月の読売新聞
金山町の山林で胸から血を流している男性の遺体が発見された。
自殺であると判断された。

終わりに

新田金山城

平成年間でこれだけの事件が起きているのだから、昭和期にも何かしらの事件や事故が発生している可能性がある。

金山城と直接的な関係はないが、太田市には軍事関連施設・中島飛行場があったので、第二次世界大戦末期に米軍から凄まじい空襲を受けている。

金山城が心霊スポットとされる理由はその歴史にあるのではなく、近・現代に起きた事故や事件にあるのかもしれない。

コメント

  1. より:

    この辺りは色々あったと思います。私も一度行ってみようと思ってます。新田義貞関係は生品神社にも呪いの類の話がありそうですね。調べようと思ってます。

    • いちのまる より:

      太 さん

      生品神社は確か挙兵の地でしたね!
      かなり前ですが、新田荘遺跡は全て巡りました。

      群馬県は戦国時代、強豪に囲まれていたので戦が多くありましたね。
      その関係で何かあるかもしれないですね!

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