原城は1637年(寛永14)に勃発した島原・天草の乱で一揆勢が籠城し、幕府軍と死闘を繰り広げた場所である。
籠城した一揆勢は敗戦の後、老若男女問わず惨殺され、この地に無造作に埋められた。
近年の発掘調査ではキリシタン関連の遺物や陶磁器、武器、そして人骨などが確認されている。
今回は原城の歴史、及び島原・天草の乱について簡単に紹介しようと思う。
原城の場所
原城は長崎県・島原半島の最南端に位置する南島原市に築かれた梯郭式の平山城である。
交通の便はあまり良くない。
私は島原城経由で訪問したので、海沿いをそのまま南下したが、何処から向かうかによって行き方が大きく変わる。
原城の歴史
従来、1496年(明応5年)に有馬貴純が日野江城の支城として原城を築いたとされて来たが、どうやらこれは誤りらしい。
実際はキリシタン大名で知られている有馬晴信が築城者で、年数は1599年(慶長4)が正しいようだ。
これについては『攻城団』さんの『原城の築城年について南島原市に教えていただきました』で詳しく説明されているので、気になる方は一読して頂きたい。
1616年(元和2)、日野江藩主・有馬直純が延岡藩(宮崎)に転封した後、大和五条藩(奈良)から松倉重政が日野江に入封。
松倉重政は日野江城、及び原城を廃城とし、新たに島原城を築城した。
大和五条藩時代の重政は善政を施し民から慕われる名君であったが、島原では上手くいかなかった。
島原半島は火山灰土壌で農作物の栽培が困難であり石高は低い。
そのような状況下で島原城の築城や江戸城普請の請負などを行ったため、藩は困窮を極めた。
そのしわ寄せは領民に重税という形で圧し掛かる。
さらに、幕府から発布された禁教令を受けて、苛烈なまでにキリシタンを追い詰めた。
雲仙地獄での拷問・処刑は地獄そのものだったと云う。
1630年(寛永7)、松倉重政が小浜温泉で死去。
後継ぎの松倉勝家は父と変わらず島原の民から搾取し、キリシタンを追い詰めた。
そこに凶作が重なり、ついに民衆の堪忍袋の緒が切れてしまった。
1637年(寛永14)、島原・天草の乱の勃発である。
島原では有馬直純が転封した際、主君に追隨せず当地で帰農した者が存在し、彼らの多くは地域の指導者的な立場にいたため、不満を募らせる民衆を集め蜂起の機会を窺っていた。
一方、肥後国(熊本)でも小西行長、加藤忠広が改易されたことによって行き場を失った大勢の浪人が反旗を翻すチャンスを狙っている状況にあった。
そして、一揆勢のリーダーたちは談合島(湯島)にてキリシタンのカリスマ的な存在だった天草四郎を総大将に担ぎ上げ決起した。
島原の一揆勢は暴徒化し各地で暴虐の限りを尽くし島原城へ攻め入り城下を焼き払ったと云う。
天草では敵の本拠地である富岡城を攻撃し落城寸前までの勢いを見せた。
幕府の命により九州諸藩の軍勢が一揆の鎮圧に動き始めると、一揆勢は原城跡に集い籠城戦の準備を開始。
彼らは一国一城令によって破却された原城を改修し、約2万7千人(諸説あり)の一揆勢が立て籠もり幕府軍を迎え撃った。
板倉重昌率いる幕府軍は原城を取り囲み総攻撃を行うが、城の守りは固く攻め落とせずにいた。
一揆勢の士気は頗る高い反面、幕府軍は総大将の身分が低く統率が取れていなかったのが原因だと云われている。
功を焦ったのか板倉重昌は強引な攻撃を行ったため多大な損害を被り、自身は戦死してしまった。
幕府は新たに松平信綱を総大将に立て、更なる軍勢を原城に派遣、信綱は強硬を避け兵糧攻めを採用している。
援軍の見込みもないうえに兵站を完全に絶たれ原城内の物資は枯渇しつつあった。
幕府軍閥は兵糧攻めの継続、総攻撃の二択で意見が割れたが、平定に時間が掛かりすぎている事が幕府の威信に関わると総攻撃を開始。
一揆勢に抵抗する力は既に残されていなかった。
一揆勢は内通者の山田右衛門作を除き皆殺しにされ、原城は再び反乱勢の根城にならないよう徹底的に破壊された。
こうして、島原・天草の乱は幕を閉じた。
島原藩主の松倉勝家は改易され後に反乱の原因を作った理由で斬首されている。
江戸時代に大名の身分で武士の名誉である切腹ではなく斬首刑に処された唯一の人物だと云う。
天草領を治めていた唐津藩主の寺沢堅高も失政の責任を問われているが、天草領の没収だけで済んだ。
しかし、後に精神に異常をきたし自殺している。寺沢堅高に後継ぎは無く唐津寺沢氏は断絶してしまった。
キリシタンの呪いかな…?
キリシタンに恐れをなした幕府は宣教師の潜入を防ぐためポルトガルとの国交を断絶し海禁体制(鎖国)を進めることになる。
終わりに
以上が原城及び、島原・天草の乱の歴史である。
原城には心霊スポットの噂がある。
理由は説明するまでもないだろう。
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