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国宝・大浦天主堂の歴史について【長崎】

国宝・大浦天主堂は1865年(元治2)にプティジャン神父を中心として創建された日本国内最古の現存する教会です。

1597年(慶長2)に長崎の地で殉教した日本二十六聖人を称えるために造られたこの天主堂は禁教令で縛られていた隠れキリシタンを解放することに繋がり、日本キリスト史のなかで取り分けて重要な歴史的建造物です。

 

大浦天主堂へのアクセスや拝観料金など

電車なら長崎駅から長崎電気軌道の長崎駅前に乗って築町乗り換えで大浦天主堂下を下車。

タクシーでもそれほど料金はかからないので電車やバスが面倒な方はタクシーをおすすめします。

自家用車でしたら長崎自動車道から『ながさき出島道路』に入ります。道なりに進むと国道499号にぶつかるので左折。少し直進すれば大浦天主堂、グラバー園の案内板があると思います。

観光名所なので駐車場は付近にたくさんあります。

 

 

大浦天主堂の歴史

大浦天主堂

大浦天主堂の歴史を語るには戦国時代後期まで遡る必要があります。

1549年(天文18)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教を布教を開始します。九州の諸大名を始め、当時国内で勢力を伸ばしていた織田信長などにもキリスト教は受け入れられました。

当時のキリスト教の文化は長崎で栄えることとなります。理由はキリシタン大名の大村純忠が長崎を南蛮貿易港として開放したからです。彼を含め、親族の有馬晴信らがイエズス会に協力的であったために他宗教からの抵抗をものとせず教えが定着することになります。

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なぜ彼らは協力的だったのでしょうか?本当に共感して信仰していたのかな?

信仰心があったのは間違いないと思われます。しかし純粋に信仰心だけという訳ではなかったようです。

南蛮貿易はとても儲かるのです。日本にはないものが沢山入ってくるわけですから。世界最先端の武器の入手が可能になりました。高価でしたが国内ではまだ普及していないような武器もあります。貿易品は戦争は勿論、外交など様々な活用方法があったのです。

 

大浦天主堂

織田信長の次に実権を握った豊臣秀吉。初めはキリスト教に好意的でした。

ところが次第に懐疑的になりバテレン追放令を出すまでに至っています。

この理由としては、

1.ポルトガル人による奴隷売買の阻止

2.キリスト教と浄土真宗と重ねた

3.キリシタンによる日本古来の宗教の迫害

などがあります。

1.ポルトガル人による奴隷売買の阻止

これは実際に行われていたようです。まぁ、何処の国でも奴隷売買は行われていましたし、日本国内でも普通にやっていたそうです。ただ日本人が海外に奴隷として飛ばされることは支配者として絶対許してはいけないことです。

 

2.キリスト教と浄土真宗と重ねた

信徒の信心ぶりに脅威を感じたのでしょう。浄土真宗(本願寺)に苦しめられた織田信長を間近で見ていた秀吉はキリスト教から一向一揆を想像したのかもしれません。ましてや海外が相手なのでそうなった場合の強さが未知数です。

 

3.キリシタンによる日本古来の宗教の迫害

キリシタン大名で知られる大村氏、有馬氏、大友氏などは日本古来の寺社の破壊して関係者を迫害しました。豊後(大分)の大友宗麟はかなり派手にやったそうで家臣や領民たちは慌てふためいたそうです。キリシタン大名が一丸となって反抗してきたらたまったもんじゃありません。

 

大浦天主堂

布教を禁ずるバテレン追放令を出した秀吉ですが、当初は意外にも信仰の自由を許していました。

ところが以下の事件により極端にキリスト教を拒絶するようになります。

大事件の名はサン=フェリペ号事件。

1596年(文禄5)に土佐国にスペイン船のサン=フェリペ号が漂着したことから始まります。曖昧な点が多く日本人とスペイン人の間でどのようなやり取りがなされたのかは不詳ですが、結果として豊臣秀吉は日本国内にいた宣教師3人と修道士3人、そして日本人信徒20人を処刑しました。

スペイン船の船員が日本の使者に対し『スペインはまず宣教師を派遣し相手の国民を教化させ支配する。そして徐々に支配を広げ、兵を送り植民地にする。』と口にしたことが原因とされていますが、このことは一次史料に残っていないので史実であるかわかりません。

ただサン=フェリペ号事件が原因で計26人もの人間が処断された事実から秀吉はスペインおよびキリスト教に何かしらの脅威を感じたのでしょう。この後、江戸幕府を開いた徳川氏はさらに徹底してキリシタンの迫害を進めていくことになります。

 

大浦天主堂

サン=フェリペ号事件での26人の殉教者。そう、冒頭でお伝えした通り大浦天主堂はこの日本二十六聖人に捧げるために創建されたのです。

大浦天主堂が創建されしばらく経つとプティジャン神父のもとに12~15名の邦人が姿を現します。彼らは長い間、迫害の恐怖に耐えながらこのときを待っていました。

『神父様、私たちの心は貴方と同じです…。』

明治初期は江戸時代から続く禁教令が有効だったため公にキリシタンを名乗れませんでした。しかしこのことがきっかけで各地で隠れながら信仰していた人々が徐々に表に出てくるようになります。

 

大浦天主堂

江戸時代が終わり近代西洋化が進むと日本はキリスト圏の国々から『禁教令は廃止すべし!』と非難を浴び始めました。

日米修好通商条約(不平等条約)の改正を狙う明治政府としては禁教令を貫いて欧米を怒らせるわけにはいきません。そして1873年(明治6)、政府は禁教令の廃止を決定。1614年(慶長19)から続いたキリシタンへの迫害は262年経ってようやく終わりを迎えることになりました。

1889年(明治22)に発布された大日本帝国憲法で下記のように明言されたことからキリシタンは自由に活動できるようになり徐々に信者数を伸ばします。

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

大日本帝国憲法第28条

読みやすくすると『日本の臣民は安寧秩序を妨げず、および臣民としての義務に背かない限り信教の自由がある』という感じかな。これには『信仰の自由は認めるけど大日本帝国を害するなら容赦しませんよ?』といった威圧的なニュアンスが含まれていますね。

昭和に入り第二次世界大戦が勃発。

敗戦の色濃く降伏止む終えずというさなか、長崎市に非人道的な殺戮兵器『ファットマン(原子爆弾)』が落とされます。阿鼻叫喚地獄。結果、多くの人々が惨殺され、生き残った人々も後遺症で苦しみ続けることに……。

大浦天主堂は爆心地から4kmほど離れていたため焼失は免れています。しかし壁や屋根が崩れてしまったので改修工事が行われました。

 

終わりに

大浦天主堂

今回は宗教や戦争と扱いづらいテーマでした。

両方とも論争の火種になりやすい繊細な事柄なので下手なこと書けませんからね。大学生の頃、仲間とこれらについて熱く口論したのを思い出しました。良くも悪くも昔はいろいろと考えていたんだなぁ……。

社会人になってからこのような話はできなくなってしまいました。

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