遺体発見現場・入の谷津橋と時効が成立してしまった誘拐事件の経緯について

入の谷津橋

群馬県高崎市鼻高町の寺沢川に架かる入の谷津橋(いりのやつはし)。

1987年(昭和62)9月14日夕、同市に住む5歳の幼児が誘拐された。

『滑り台で遊んでくる』と自宅から15m程離れた神社に一人出掛けたまま戻らなかった。

 

入の谷津橋

その直後、男性から『2000万よこさなければ子供を殺害する』といった旨の電話が入り、幼児の父親が警察に通報する。

2回目の電話は『2000万をよこせ』と繰り返しプツリと切れた。

3回目の電話では『もしもし?』と怯えた様子の幼児が出ている。

『どこにいるの?』という問い掛けに『おわまりさんと一緒』と返答あった。

 

入の谷津橋

その後、無言電話や数回のコールで切れる電話が続き、2日後の9月16日朝の電話で『夕方の6時までに1000万用意しろ』と犯人からの指示があった。

再び、数回のコールで切断される電話が5、6回あった後、連絡は途絶えた。

9月16日朝の電話は、逆探知機によりNTT『群馬長野局管内(高崎市北西部など)』から発信されたものと判明している。

 

入の谷津橋

同日正午、自宅から5km離れた同市鼻高町の入の谷津橋の下から服を着ていない幼児の遺体が発見される。

検死の結果、水は飲んでいなかったが、肺などに多量の砂が詰まっており、死因は窒息死とわかった。死亡推定時刻は9月15日午前10時30分以前。

生きたまま川に投げ込まれた可能性が高く、外傷の様子から胸部と下顎を下にして落とされたのではないかと云われている。

橋の高さは12.8m。川の幅は約7m、水深は3~5cm

 

入の谷津橋

逆探知の結果、遺体発見現場などから土地勘のある人物が犯人だと考えられた。

数度に亘るいたずら電話、被害者を生きたまま(?)全裸で川に投げ入れ殺害、身代金の減額、これらの状況から怨恨による犯行も可能性に入れられた。

15年間で延べ26万4千人の捜査員を投入し、情報提供は1970件、捜査対象者は4200人に上った。

朝日新聞デジタル(2017年9月15日)

『未解決のまま…父2人、傷つき30年 2日続け誘拐殺人』より引用

その後、懸命な捜査が続けられたが、2002年(平成14)9月14日午前0時に公訴時効が成立した。

無常で無念な結末に終わった事件である。犯人はまだ生きているのだろうか?

 

終わりに

入の谷津橋

誘拐事件とは全く関係ないが、入の谷津橋の横に気になる石碑があった。

いちのまる
いちのまる

『風水害遭難者之碑』『昭和二十二年 九月十五日』『11名の受難者と年齢』って刻まれています。1947年(昭和22)9月の大災害といえば、関東地方を滅茶苦茶にしたカスリーン台風だね。

寺沢川流域でも氾濫や土砂崩れが発生したのだろう。

これは、過去の大災害を私たちに伝える重要な碑石である。

『隣の地蔵尊と共に、大事にしていただきたい』と思った次第だ。

コメント

  1. 上総 より:

    >高崎市鼻高町

    って展望の丘とかあって、花を見に何度も訪問してる場所。
    考えてみると、丘を挟んで高崎市街側は開けてますが、反対側は(誘拐とか)何があっても不思議じゃないほど、人気が無い地域。

    そんな大きな事件があったのですね。

    • いちのまる より:

      上総 さん

      展望の丘近くにありますね。
      少林山があるくらいで、あとはポツポツと民家があるくらいですよね。

      今はあまり誘拐事件って聞かないですが、昔はよくあったみたいですね。
      ほぼ、同時期に太田市方面でも誘拐があったようですし…。

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