那須湯本温泉の名勝!殺生石の由来について三国妖婦伝をざっくり訳しながら紹介するよ!

殺生石

栃木県の那須湯本温泉に殺生石と呼ばれる曰く付きの石がある。

観光客や湯治者たちがフラりと散歩に訪れる風流な名勝地だ。

心霊スポットとしても有名な場所らしいが、恐れるような場所ではないと私は思う。

古くから伝説が残るこの地を風景と共に紹介しよう。

 

殺生石と九尾の狐

殺生石

九尾の狐は古くは中国の霊獣として語られ『食せば邪悪から守る』『徳の高い皇帝の下に現れ、繁栄に導く』など吉祥の権化と考えられていた。

反対に殷国の紂王を誑かし国を傾けた妲己が九尾の狐だったという話もあり、権力を滅ぼす悪の象徴として描かれることもある。

徳や繁栄の象徴を奪い合う醜き烏合が九尾を邪悪足らしめたのであろうか?

 

日本と九尾の狐

殺生石

日本にも九尾の狐伝説が残っている。

詳細は後述するが、那須町の殺生石は九尾の狐に所縁のある場所なのだ。

中国から輸入されてきた当初、彼の国と同様に瑞獣の扱いを受けた九尾は、時代の流れと共に妖怪化されていった。

『九尾の狐=妖狐』のイメージを抱く方も多いのではないだろうか。

 

吉備真備と九尾の狐

殺生石

奈良時代に活躍した公卿・吉備真備(695~775)が九尾の狐を船に乗せ日本に持ち込んだと伝わる。

留学先の唐から帰朝するため乗り込んだ船に、いつの間にか若藻と名乗る16歳位の美女が乗っていた。

不審に思って問いただす吉備真備であったが、若藻は同情を誘って許しを得る。

博多に着いた一同。

下船後、吉備真備は辺りを見渡すが若藻の姿は無かったと云う。

 

玉藻前と九尾の狐

殺生石

平安時代後期、鳥羽上皇(1103~1156)は艶やかで美しい博識秀才な17歳程の女官・藻女(みずくめ)を寵愛した。

藻女が侍るようなってからというものの、上皇は淫酒に身を委ね、政に顧みなくなった。

とある儀式の事。

宵のうち、一陣の風が灯火を吹き消し、忽ち暗闇に包まれる。

皆が慌てふためくなか、藻女はその身から光を放ち、白昼の如く照り輝いた。

訝しむ一同を前に上皇は『藻女ほどの人間ならば、このようなことも可能であろう。玉の一字を下し、玉藻前と名を変えるといい。』と言い放った。

 

安倍泰親と九尾の狐

殺生石

上皇の玉藻前に対する愛情は更に深まり、怨み嫉みの感情を持たない者はいなかった。

上皇は次第に狂人と化し青白くやつれ、病に侵されていく。

霊薬を処方されようが、高僧の祈祷に身を委ねようが、容態は悪くなる一方である。

そこで陰陽師・安倍泰親が呼び出され、上皇の御悩みを卜することとなった。

 

殺生石

泰親は玉藻前の正体を見破り、原因は全て彼女にあると判断した。

紆余曲折ありながら、遂に泰親と玉藻前の対談が始まる。

泰親は2つの疑いを玉藻前に投げかけた。

『身分の高い人に拾われたと聞くが、誰も貴女の素性を知らない。』
『いつかの儀式の際、暗闇に包まれた場を貴女は自ら光を放って明るくした。』

玉藻前はこの質問に対し、

『それは愚痴の類か?産みの子を捨てる親が、私が捨てた子ですなどと名乗り出るはずがなかろう。』
『聖武天皇の妃・光明皇后は光を放ったことが由来で、その名を与えられたという。私に限ったことではない。』

流暢な弁口に泰親は首を垂れ何も言い返すことが出来なかった。

泰親は捕らわれてしまうが、すぐに赦されている。

 

殺生石

とある日、泰親のそばに仕える童子が突然気を失い、狂い叫んだ。

『玉藻前は化け狐であることは間違いなし!これを退けるには禁裏にて退魔の祈祷を行え。そうすれば、正体を現し帝都から立ち去るだろう。やがて、上皇の病も収まる。』

泰親は『上皇の平癒を願う祈祷を行わせて欲しい。』と上奏し再びチャンスを得る。

祈祷の当日。

玉藻前は泰親の企みに気づき問い詰めるが『貴女が普通の人なら何も問題ないだろう?』と準備を進めた。

祈祷式から立ち去ろうとする玉藻前を呼び止め挑発する泰親。

『主人の祈祷を行う儀式から逃げる寵妃がいてたまるか。ここに日本の神を呼び出せば、人間に非ず者はいられないだろう。』

参加者の目の前でこのように挑発されてしまったら退くわけにはいかない。

 

玉藻前、正体現したり!

殺生石

そして、祈祷の儀式が始まる。

泰親が呪文を唱え、弓を3度鳴らしたその時…。

玉藻前の顔色がみるみるうちに土色に変化し、眼を血走らせ、わなわなと震えだした。

泰親を睨みつけるその目元は何に例えようか?

すると、空が黒雲で覆われ激しい雷雨が降り注いだ。

美しき玉藻前は姿を消し、そこには金毛白面の九尾の狐が現れ虚空に逃れようとしている。

すかさず、泰親は壇にあった四色の幣を掴み投げた。

赤・黒・白の幣は地に落ち、青の幣だけ跡を追い行方知らずとなった。

一同は『玉藻前は狐で人ではなかった』と驚懼した。

その後、上皇は何事も無かったかのように平癒したと云う。

 

那須八郎宗重と九尾の狐

殺生石

朝廷は青の幣が留まる場所に九尾の狐が隠れていると東国筋にお触れを出した。

下野国奈須郡高(栃木県那須)、奈須八郎宗重はこの度のお触れを聞き、配下の者に領内を見回りさせると、奈須野の原に青い幣が落ちていたため、都に報告する。

私兵を率いて討伐を試みる奈須八郎宗重。

しかし、九尾の狐は姿を現さなかった。

程なくして夜な夜な人々を悩まし、或いは人を喰らい、街道の人々を惑わせ、里の人を煩わすという噂が聞こえるようになる。

終いには領内の人間が1日20~30人の民が忽然と姿を消すようになった。

再び八郎は討伐隊を派遣するが、一向に見つからない。

九尾の狐は見当たらないけれども、山奥の窪地に無数の骨や喉笛や急所を噛み千切られた屍が次々と発見され人々は恐れ戦いた。

八郎は止む無く都に参上し助けを乞うことにした。

 

九尾の狐、討伐隊!

殺生石

こうして朝廷からの命により東国で名を馳せた三浦介義純、上総介広常、そして安倍泰親が妖狐退治に乗り出す。

奈須野の原に火を放ち炙り出すと同時に、南に聳える久良神山から泰親が丹精に祈り続けた。

すると、身の丈7尺・尾頭かけて1丈5尺の大狐が現れたため、三浦介義純、上総介広常らは急いで兵を指示して大狐を取り囲み、泰親も結界を張って逃がさないようにした。

暴れ回る大狐によって幾人もの兵卒が命を失ったが、義純が念を込めた矢で脇腹を射る。

怯まず向かってくる大狐!

豪胆な義純は恐れることなく狙いを定め首筋に一閃。

更に広常が大身の槍で追撃し、とうとう九尾の狐の討伐が叶う。

大勢の兵卒らが『大狐に止めの一撃を!!!』と押し寄せるが、狐の屍はパッと消え去り、石となってしまった。

不思議に思った彼らが近づくと、どういう訳か皆バタバタと死んでいく。

泰親は『狐は毒石になった。近づかなければ問題ない。危険な石ゆえ接近禁止と札を建てればいい。』と言い残した。

 

九尾の狐の最期

殺生石

接近禁止の御触れを出したけれども、何も知らない野生の動物たちは瘴気に当てられ死んでゆき、石の下から湧き出る水は川を流れ魚を殺した。

それ故、殺生石と名付けられた。

後の世に、殺生石教化済度の勅命を受けた玄翁和尚。

読経しつつ毒石に近づくと麗しき玉藻前が現れ和尚を誑かす。

しかし、和尚は一切聞き入れない。

逆に玉藻前を説き伏せ解脱へと導く。

数珠を振りかざし『喝!』と石を打てば、苔むした殺生石は2つに割れ白気を立ち昇らせた。

砕けた石の欠片は各地に飛び散り、各々社が建てられ祀られたと云う。

貴賤美色に心を蕩わるものは家をうしなひ身を亡ぼす。

古往のみにあらず、今来の美人、たとへ其の性妖狐の変ずるにあらずとも、男子昏迷せば何ぞ妖狐にあらずとせん。

これを鏡として少しく修身齋家の端ともならば、奇怪の談も咎むべきに、しもあらざるかと聊か弁じて筆をとどめぬ。

三国妖婦伝より

 

終わりに

殺生石

今回、紹介した物語は全て『絵本 三国妖婦伝』をざっくり訳したものである。

かなり粗末な訳であるし、省いたところも多い。

九尾の狐と那須の殺生石の繋がりが何となくでも理解してもらえればと書いてみた。

興味深い物語なので時間のある方は原文を是非読んで頂きたい。

いちのまる
いちのまる

オチが最高に素晴らしかった!

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