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飛山城と城主・芳賀氏の歴史について【栃木】

飛山城

国指定史跡・飛山城跡。城跡は飛山城史跡公園として整備されています。

園内には掘立柱建物や竪穴建物、堀や土塁を復元したものがあり当時の雰囲気を少しだけ再現しています。また西側の崖の向こうには鬼怒川が流れ、空気が澄んだ冬場の早朝や夕方に富士山が見られることで有名。

公園に併設されている『とびやま歴史体験館』では土器や勾玉作り、甲冑や小袖の試着、羽根突きや独楽回しなどの遊戯を体験することができます。

それでは飛山城の歴史を見ていきましょう。

 

飛山城跡へのアクセス

飛山城

自動車だと東北自動車道の宇都宮ICか北関東自動車道の宇都宮上三川ICが最寄りの高速出口です。いずれも国道4号線から国道123号線に入る道のりがわかりやすいと思います。国道123号線の鐺山交差点を宇都宮方面からみて左に曲がり、しばらくすると案内板が出てきます。

やや難しい場所にあるのでgoogle mapにナビしてもらうか事前に場所を詳しく調べてから向かった方がいいです。

 

飛山城の歴史について

飛山城

史跡整備のために行われた発掘調査で烽家(とぶひや)と墨で書かれた平安時代のものとされる陶質土器が発見されました。『烽』は火を焚き煙で知らせをする『のろし』のことで『家』はこの場合『施設』の意味があります。

つまり、烽家は『のろしをあげる施設』ということ。

飛山の名の由来は烽家から来ているのではないかと云われています。

 

築城者の芳賀氏について

飛山城

『のろしをあげる施設』ですから軍事施設として使われていたのでしょうが、砦や城の規模ではなかったようです。

城としてこの地が活用され始めたのは鎌倉時代の後半。1293年から1298年の間に芳賀高俊が飛山城を築城しました。

 

宇都宮氏と芳賀氏

飛山城

芳賀氏(はが)は下野国の宇都宮氏に従った一族で、出自は天武天皇の皇子・舎人親王の子孫が名乗った清原氏とされていますが諸説あります。1189年に源頼朝と藤原泰衡の間で起きた奥州合戦。この戦いに芳賀氏の名前が出ています。

并宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。

吾妻鏡 第九巻より

宇都宮朝綱に従う紀権守、波賀次郎大夫、以下7人。

漢字は異なりますが、波賀次郎大夫が飛山城を築城した芳賀高俊の先祖とのことです。

 

次紀權守。波賀次郎大夫等勳功事。殊蒙御感之仰。但不及賜所領。被下旗二流。被仰可備子孫眉目之由云々。

吾妻鏡 第九巻より

続いて紀權守、波賀次郎大夫らの褒美の事。特にお褒め言葉をいただく。でも所領を与えるほどではない。旗二流をもらい、子孫の誉れのために備えるといいとおっしゃった。』

紀權守は後の益子氏で芳賀氏と並んで宇都宮氏の重臣として扱われていました。両家の活躍は目覚ましく『紀(益子氏)』と『清原(芳賀氏)』から紀清両党と呼ばれ関東武士の象徴とされる時期もありました。

 

芳賀高名の台頭

飛山城

鎌倉時代末期、後醍醐天皇は打倒鎌倉幕府を掲げ兵を募りました。

芳賀氏の主君である宇都宮氏9代目・公綱は幕府の味方をし、公綱の傘下にいた芳賀高名は天王寺の戦い、千早城の戦いで楠木正成を苦しめ武名を上げます。

鎌倉幕府が滅亡すると宇都宮氏は後醍醐天皇に従いました。その後、後醍醐天皇(南朝)と室町幕府を開いた足利尊氏(北朝)の戦いが始まります。

 

飛山城

宇都宮公綱は引き続き後醍醐天皇即ち南朝の味方をしますが、実質宇都宮氏を牛耳っていた芳賀高名は公綱の息子・氏綱を担ぎ上げ足利尊氏(室町幕府)と手を組みます。

1341年、南朝によって飛山城は落城していますが、次第に北朝有利の風向きに。

1351年、足利尊氏・直義兄弟の対決『薩埵峠の戦い』で芳賀高名は尊氏の味方をし勝利を治めています。この戦功により主君・宇都宮氏綱は上野と越後の守護に任じられます。

しかし、尊氏が死後に跡を継いだ足利基氏は宇都宮氏綱から越後守護を剥奪し上杉憲顕に授けます。

芳賀高名はこれに反抗。

『打倒・上杉憲顕』と挙兵しますが、敗北に終わります。その結果、宇都宮氏綱は上野守護までも剥奪され更に討伐令が出されてしまいます。氏綱は抵抗をせずに降伏を選びました。

こうして芳賀高名は一線から退いたと云われています。

 

宇都宮錯乱とは

飛山城

宇都宮錯乱は1512年から1514年に宇都宮氏で起きた内紛です。

これは芳賀氏が宇都宮家中で必要以上の権力を持ってしまったことが原因でした。芳賀高勝は筆頭家臣として宇都宮氏17代目の成綱に仕えましたが、主君を軽んじてやりたい放題。成綱や他の家臣たちは横暴な高勝をどうにかしなければならないと考えました。

両者の決裂が決定的になったのは古河公方家(関東足利氏)の家督争いです。宇都宮成綱は足利高基を、芳賀高勝は足利政氏を支持します。

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芳賀高勝の意見を突っぱねて『宇都宮氏の総意は足利高基の支持!』とまとめられなかったのは芳賀氏の力があまりにも強すぎたからでしょう。前述した芳賀高名も同じようなことやってますね。野心の強い家系なんでしょうか?

1512年、宇都宮成綱は芳賀高勝を謀殺します。それをきっかけに芳賀氏が反乱を起こしました。

芳賀氏に対抗するため足利高基らの助力を得て2年がかりで鎮圧しています。

 

衰退する芳賀氏

飛山城

鎮圧後、宇都宮成綱は芳賀高経(高勝の弟)などの主犯格を助命し手元で監視します。そして自身の弟、あるいは子供の宇都宮興綱を養子として芳賀氏に入れ跡を継がせたといいます。成綱は混乱が収まっていく様子を眺めながら1516年に亡くなります。

次の当主は宇都宮忠綱です。

1526年。再び内紛が勃発。これを大永の内訌といいます。

簡単に説明すると↓

宇都宮家中が分裂して下総の結城政朝が介入。結城政朝と宇都宮忠綱が戦い忠綱敗北。芳賀高経を中心としたアンチ・宇都宮忠綱の集いが忠綱に計略をかけて宇都宮から追い出す。その後、芳賀氏の養子に入った宇都宮興綱を擁立して宇都宮氏を継がせる。

で、宇都宮興綱は芳賀高経に追い込まれて自害します。そして、芳賀高経は宇都宮興綱の息子・尚綱に追い詰められ自害しています。身内でしょうもない戦いを続けたため、宇都宮氏も芳賀氏もどんどんと力を失っていったのでした。

 

壬生綱房による宇都宮城乗っ取り事件

飛山城

高経のあと芳賀氏を継いだのは、宇都宮家中で芳賀氏と肩を並べるほどの重臣・益子氏からきた芳賀高定でした。

1549年、宇都宮尚綱が那須高資と戦いで戦死。どさくさに紛れて宇都宮家臣の壬生綱房が宇都宮城を乗っ取ります。このとき壬生綱房は那須高資に身を寄せていた芳賀高経の子・高照を宇都宮城に呼び協力させました。

いちのまる
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壬生氏は宇都宮家中で芳賀氏や益子氏の次点に位置する重臣です。壬生氏もこれまで説明してきた内紛に関わっているのですが、話がややこしくなるので省いてきました。壬生綱房も芳賀氏と同じく宇都宮氏を引っ掻き回しています。

これに対抗したのが芳賀高定とまだ幼い宇都宮広綱でした。高定は広綱を連れ宇都宮城から脱出し真岡城に入り、そこで保護し教育を施します。

広綱と高定は1551年に那須高資、1555年に芳賀高照を謀殺。

1557年、周囲の大名の協力を得て宇都宮城を奪還します。壬生綱房は1555年に亡くなったとされるので奪還したときの壬生氏当主は壬生綱雄でした。その後、芳賀高定は隠居し芳賀高継(芳賀高照の弟)に家督を譲ります。

 

芳賀氏の没落

飛山城

戦国時代末期。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐(北条討伐)で関東が平定されます。飛山城は秀吉から破却令で廃城となりました。宇都宮氏22代目の国綱は豊臣秀吉の下で頑張って働いていましたが、突然改易されてしまいます。改易の原因は定かになっていないようです。

そして、芳賀氏11代目の高武(宇都宮広綱の三男)も宇都宮氏と同様に改易処分を受けています。

こうして宇都宮氏と芳賀氏は没落してしまいました。

 

まとめ

これまで長々と述べてきた芳賀氏を簡単にまとめると↓

宇都宮さんの重臣だった芳賀さんは最初は主君のため尽くしていましたが、権力を持ちすぎて宇都宮さんちを大混乱に陥れます。

芳賀さんと肩を並べる重臣の益子さんから養子としてやってきた芳賀高定がうまくまとめてくれましたが、関東地方を制圧した豊臣秀吉に宇都宮さんも芳賀さんも改易されてしまいました。

以上です。

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