私にとって墓地系心霊スポットは特筆すべき事が少ない。
本当に霊が存在するのであれば、墓地以上に霊が出る場所はないだろう。
心霊を主軸として紹介するのであれば、如何様にも話を盛り上げられると思うが、そうでない私はいまいち筆が進まない。
と言ったものの、青山霊園は少々事情が異なる。
ここは霊園であるが、史跡でもあるのだ。
心霊の話は捨て置いて、今回は青山霊園に眠る日本の偉人たちを紹介しようと思う。
青山霊園の場所
電車の利用をおすすめする。
東京メトロ銀座線・外苑前駅、若しくは東京メトロ千代田線・乃木坂駅を下車した後、徒歩10分程で到着する。
駅構内に霊園方面へ向かう案内があるので、その出口から出よう。
青山霊園に眠る方々
どういう順番で紹介しようか小一時間ぐらい悩んだが、私が発見した順に紹介しようかと思う。
白峰駿馬の墓
越後国(新潟県)長岡藩出身の武士、実業家。
勝海舟の門下生で、坂本龍馬が結成した海援隊の一員である。
坂本龍馬が暗殺された後に白峯造船所を開き実業家として活躍した。
池田勇人の墓
広島県出身の内閣総理大臣(第58・59・60代)。
国民所得倍増計画を打ち立てた総理大臣。
高度経済成長期を支えた人物で、これにより派手な発展を遂げた日本であるが、その反動が現代の思想へと繋がっている気がしないでもない。
野津道貫の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、軍人(元帥陸軍大将)。
幕末の薩英戦争を始めとし戊辰戦争、日清戦争、晩年は日露戦争に第4軍司令官として参戦している生涯軍人な御方である。
黒田清隆の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、軍人(陸軍中将)、第2代内閣総理大臣。
後述する大久保利通が暗殺されると薩摩派閥の重鎮として権力握った。
豪放磊落な親分肌を持つ人物だったようであるが、酒を飲むと手が付けられない。
伝記等を読む分には愉快な人物であるけれども、自分の上司だったらと想像すると恐ろしい。
高島鞆之助
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、軍人(陸軍中将)、政治家。
自宅が上智大学の四谷キャンパス内に現存している。
陸軍教導団長を務め教育の大切さを説いた。
大阪府の私立・追手門学院小学校の前身である大阪偕行社附属小学校の設立者である。
大久保利通の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、政治家。
西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑に数えられる。
新政府樹立の功労者であったが、志半ばで暗殺されてしまう。
彼について説明し始めると切りが無いので割愛する。
様々な意見はあるだろうが、激動の時代を類稀なる才覚で舵取りした傑物だと思っている。
志賀直哉の墓
宮城県出身の小説家。
“小説の神様”と称せられる程、日本文壇界に影響を与えた人物。
代表作に『城の崎にて』『暗夜行路』などがある。
私のイメージで申し訳ないのだけれど、彼の作品は『具象的な詩』のように感じる。
ひたすらに読みやすく、詩的であるが、漠然としたところは無く、はっきりと情景が感ぜられる。
谷崎潤一郎の言葉を借りれば”わからせる”文章の極みである。
川路利良の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、軍人(陸軍少将)、初代大警視(後の警視総監)。
欧米の警察制度を日本に導入・整備したことから”日本警察の父”と称されている。
西郷隆盛と西南戦争で対立したため鹿児島ではあまり人気がなかったが、近年評価が進んでいるらしい。
西郷主軸の物語では、どうしても悪役として書かれてしまいがちである。
黒田長溥の墓
筑前国(福岡県)福岡藩の11代当主。
オランダかぶれの大名だったそうである。
この時代であれば、或いはそれが正解だったのかもしれない。
黒田官兵衛・長政父子ゆかりの福岡藩であるが、途中で養子を入れているため、彼らとは血の繋がりが無い。
やはり、大名の墓は規模が違いました。
他の方々の墓と段違いです。(大久保利通を除く)
珍田捨巳
青森県出身の外交官、キリスト教牧師。
全国に1000人いるかいないかの非常に珍しい苗字である。
外交官の偉業は語るに難しく歴史の陰に隠れがち。
正直私も上手く言い表せない。
彼らに関する書物も読んでみる必要がありそうだ。
島村速雄の墓
土佐国(高知県)出身の軍人(元帥海軍大将)。
日露戦争では参謀長として戦艦三笠に搭乗。
東郷平八郎司令長官を補佐し、幕僚たちを取りまとめた。
しかし、旅順口閉塞作戦や駆逐隊司令の人事整理の失敗を理由に参謀長を辞職している。
軍人にありがちな功名主義に陥らず、むしろ他者に進んで功を譲るような懐の広い人物だったと云う。
小村寿太郎の墓
日向国(宮崎県)出身の外交官、政治家。
日露戦争後の講和条約の締結で有名。
事情を知らぬ国民の中にはポーツマス条約の締結を不服と感じ、小村に罵声を浴びせたり、襲撃する者もあったと云う。
日本はロシアに辛勝したけれども、最早戦い続ける力は残っておらず、この外交合戦で終わりにしなければならなかった。
一般的な国民は日本海海戦などの勝利に酔いしれていたが、実際は非常に苦しい状況にあった。
国力に勝る強気のロシアから可能な限りを引き出したのが小村寿太郎である。
この他に、欧米列強に強いられていた不平等条約を改正し、関税自主権を回復せしめた功績も忘れてはならない。
加藤友三郎の墓
安芸国(広島県)出身の軍人(元帥海軍大将)、政治家、第21代内閣総理大臣。
上述した島村速雄の後任として連合艦隊参謀長に任命され、東郷平八郎を補佐し日本の勝利に貢献した。
1921年(大正10)のワシントン会議(国際軍縮会議)では日本の全権代表に任じられている。
加藤髙明の墓
尾張国(愛知県)出身の外交官、政治家、第24代内閣総理大臣。
東京大学法学部卒業後、郵便汽船三菱会社に入社。
その後、海運業を学ぶためイギリスに留学している。
帰国後、再び三菱に戻り、岩崎弥太郎の長女と結婚した。
岩崎弥太郎と繋がりのあった大隈重信の秘書官になり政治の道へ進むこととなる。
川上操六の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の軍人(陸軍大将)。
“明治陸軍の三羽烏”の一人。
生涯軍人。
派閥主義に陥りがちの時勢のなか、出身などを気にせず優秀であれば登用し、後世の軍人育成に貢献した。
伊地知正治の墓
薩摩国(鹿児島県)出身の武士、政治家。
極めて優秀な軍略家で、幕末の戦争では新政府軍の勝利に多大なる貢献を果たした。
天才であるが、かなり変わった人物だったらしい。
伊地智は、西郷について、參謀の樣な事をして居た。
恐ろしい智者であつたが、又氣違の樣な男であつた。
海舟座談 明治廿九年十月廿一日より
勝海舟の”氣違の樣な”は何だか誉め言葉のように聞こえる。
副島種臣の墓
肥前国(佐賀県)出身の武士、政治家。
佐賀の七賢人の一人。
薩長土肥という言葉があるが、これは明治政府に特に貢献した4藩のことを指す。
薩摩、長州、土佐、そして肥前。
佐賀藩は研究を重ねていたアームストロング砲と藩が育てた優秀な人材を新政府に送り込みその地位を獲得した。
その中には、江藤新平や島義勇のように明治政府に反抗し処刑された者もいれば、大隈重信や大木喬任のように政府中枢で活躍し続けた者もいた。
副島種臣は征韓論争の末に下野(明治六年政変)し、その後清国に遊学している。
日本に帰省してからは明治天皇に学問の講義などを行った。
周りからの評価は高く博識で徳のある人物だったと思われる。
広瀬武夫の墓
豊後国(大分県)出身の軍人(海軍中佐)。
日露戦争の旅順港閉塞作戦において敵の魚雷を受け沈没する福井丸から脱出を図るも『杉野上等兵曹(部下)の姿が見当たらない?!』と沈みゆく船に再び戻り、彼を探し続けた。
何度も何度も大声で呼び続けたが返事は無く、止むを得ず救命ボートに戻った直後、敵砲弾を頭に受け即死した。
生き延びた船員たちによって彼の偉業は伝えられ、軍神として崇められることになった。
大分県竹田市には彼を祀る広瀬神社がある。
北里柴三郎の墓
肥後国(熊本県)出身の医学者。
『日本細菌学の父』として知られている。
世界初の破傷風菌の純粋培養法、血清療法、ペスト菌の発見(同時期にアレクサンドル・イェルサンも発見している)などの功績がある。
終わりに
冒頭で青山霊園が史跡であると言った理由をお分かりいただけたであろうか?
墓場であるにも拘らず気分が高揚して我武者羅に歩き続けた。
今回、見つけられなかった偉人の墓が多数あるようだ。
忠犬ハチ公のお墓もあるみたいです!
また、いつか訪問しようと思う。
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