死人坂と東福寺の関係について

死人坂

千葉県流山市鰭ヶ崎の死人坂と呼ばれる心霊スポットへ赴いた。

坂の両脇には数件の住宅、登り切った先には縦に長い墓地が広がっていて、突き当りには千仏堂跡がある。

石仏や墓石には随分古い年号が刻まれていたので、それなりに歴史のある場所なのだろう。

名前の由来や歴史について調査したので紹介する。

 

死人坂の場所

死人坂

最寄り駅は南流山駅。

駅から10分程の位置にある。

現地に案内板などは無い。

 

 

死人坂について

死人坂

坂を登り切った所に腰を掛けて休憇している男性がいらっしゃったので、挨拶のついでに千仏堂について伺うと『千仏堂跡は東福寺の奥の院で、昔はここも寺の境内だった』とお答えを頂いた。

東福寺はここから南南西の方角に位置する真言宗豊山派の寺院である。

814年(弘仁5)に弘法大師が開山したと伝わる由緒のあるお寺で、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願を行ったという伝説も残る。

この周辺が写された過去の空中写真を入手したので寺領の様子をご覧頂きたい。

 

死人坂と東福寺の空中写真

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1961.06.03(昭36)撮影)

写真中心やや下にあるのが東福寺で、そこから左斜め上に一直線に道が延び、その先にある旧千仏堂らしき建物が見える。

森林に囲まれた土地が寺領だと思われるが、田畑も寺が管理していたのであろうか?

現在の空中写真と照らし合わせると死人坂の位置は旧千仏堂と田畑の間にある空地の部分と重なる。

 

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1970.04.23(昭45)撮影)

約9年後の空中写真。

どのような経緯があったのかは知る由もないが、寺領を囲っていた森林の一部が伐採され東福寺の南側を除いて更地になっている。

 

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1979.10.01(昭54)撮影)

更に約9年後。

道が開かれ住宅が立ち並ぶ。

東福寺と千仏堂は完全に分断されてしまった。

 

千仏堂跡に大仏が

死人坂

かつては奥の院の旧千仏堂に流山市指定有形文化財の『阿彌陀如来立像付千体阿彌陀如来立像』が安置されていたが、現在は東福寺本堂近くに移動せられた。

東福寺の案内板によると千体仏に変わる奥の院の本尊として唐金製阿弥陀如来坐像(大仏)の建立を発願したとあった。

近い将来、死人坂の上に大仏が建立されるのであろう。

 

終わりに

死人坂

いつの頃から死人坂などと呼ばれるようになったのだろうか?

『遺体が運ばれゆく坂』という意味で名付けられたのだと思われるが、正確な根拠は分からず仕舞いである。

※追記

由来が余りにも気になったので自治体に問い合わせる事にした。

ご回答を頂戴したので以下に要約する。

死人坂の名が記載されている文献は見当たらない。
千仏堂跡には東福寺の檀家のお墓がある。
千仏堂へ葬列が向かう風景から、このような俗称で呼ばれるようになったのではないかと思う。
もともと東福寺の境内は1つの台地にあって、千仏堂と東福寺の間に坂は無かった。
昭和30年代の開発によって台地が削られ坂が出来た。

坂の名前の由来は予想通りだったが、坂の歴史がこんなにも浅いとは思いもよらなんだ。

コメント

  1. ことぶき より:

    初めまして。
    楽しく拝読させていただきました。

    私の実家が、旧?千仏堂側にお墓のある檀家です。

    死人坂については、私の祖父・父・叔父に幼少期に聞いた覚えがあります。
    死人坂という名称は私の祖父(大正10年生まれ)が子供の頃からその様に呼ばれていたそうです。
    祖父の話では、祖父の祖父?の幼少期。少なくとも明治時代には死人坂と呼ばれていた様です。

    元々の死人坂は現在の、東福寺から千仏堂に繋がる直線の坂ではなく、昭和30年以前の台地時代に千仏堂に向かう坂の名称だったそうです。
    ※今のグーグルマップで見ていただくと、東福寺と千仏堂を繋ぐ横にある坂にも、死人坂という坂が見えると思います。そこが元々の死人坂だったそうです。

    元々は台地だった為、非常に急な坂で土葬時代、特に雨の日などは坂で足をすべらせ、ご遺体が坂を転がり落ちる事もあったそうです。
    お墓へと繋がる坂、死人坂。
    死人も転げ落ちる坂、死人坂。という由来だと祖父に説明された事をこの記事を見て思い出しました。

    また、叔父の話では子供時代はこの急な死人坂を自転車で一気に上りきらないと一人前と認められず、近所のガキ大将が子ども達に、こいつとは遊ぶな!!といい皆、必死に自転車で一気に上る練習をしたそうです。
    ※その後、叔父は自分がガキ大将に上り詰め、東福寺にある大銀杏の木の根元の空洞に火を付けたところ、空洞が木の上の方まで繋がっていたらしく、銀杏の木が燃えたそうです。(空洞の所だけですが)
    今でもよく見ると、その銀杏の木の上の方にある空洞?に焦げた後が見えます。

    現在、祖父・父・叔父はすでに他界してしまっているので、あくまで私が幼少期に聞いた話の羅列ですが。

    とても懐かしく記事を読み、カキコミしてしまいました!

    • いちのまる より:

      ことぶき 様

      コメント&貴重な情報ありがとうございます!

      確かに地図上では千仏堂から見て右に折れる坂も死人坂になっていますね。
      事前に調べていたので、どんな場所か気になってそこも通ってみました。

      なるほど、昔は台地にある境内に登るための出入口だったのですね。
      今はそれほど急な感じは無かったですが、昔は転げ落ちる程の急坂だったとは。

      やはり俗称ではあるけれども、地元の方々にはそう呼ばれてきた場所なのですね!

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