大須賀山(堂の山)に頂に安置される馬加康胤の首塚と五輪塔の謎について

大須賀山(堂の山)

千葉県千葉市、幕張駅から直線距離にして凡そ1km先、周囲は開発されているにも拘らず手つかずの自然が残る区画が存する。

大須賀山、或いは堂の山と呼ばれる場所で、麓には江戸時代に活躍した相撲取りの荒馬大五郎の墓、最頂部には安山岩製の高さ3m程の立派な五輪塔が鎮座する。

草木の鬱蒼と茂る大須賀山は真っ昼間であっても薄暗くやや不気味な感があった。

心霊スポットとして知られているようだが、その因縁は如何に?

 

大須賀山(堂の山)の場所

大須賀山(堂の山)

最寄り駅は総武線・幕張本郷駅か幕張駅で歩いて15分~20分くらいの距離にある。

地図で確認すると付近に有料駐車場が見えるので自動車での訪問も可能だ。

 

 

大須賀山(堂の山)の歴史

大須賀山(堂の山)

幕張町は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以後は馬加村と呼ばれていた。

この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山とも呼ばれます。

この丘は標高15m程で、南側は埋立てられるまでは、直接東京湾に面していました。

現地案内板 大須賀山の自然と文化財より

かつては馬加で『まくわり』と呼んでいたそうである。

マクワウリの産地だったとか、源頼朝と馬に纏わる伝説の残る土地だとかが名前の由来と云われているが、はっきりしたことは判明していない。

海が埋め立てられ建物が濫立する以前までは、現在の堂の山から見える景色とは全く別のものだったのであろう。

文字が摩耗して読み取れない古めかしい墓石が寺院の名残として残っている。

 

馬加康胤の首塚

大須賀山(堂の山)

墓石や地蔵尊を脇目に奥地へ進み入ると人為的に盛り土したような小高い丘が現れ、頂に背の高い五輪塔が聳え立つ。

この丘は室町時代前期に活躍した馬加康胤という武将の首塚だと伝わり、馬加康胤の死去から凡そ180年後の1637年(寛永14)に五輪塔は建てられた。

馬加康胤は千葉氏の一族で馬加を拠点としたことから馬加を名乗ったと云う。関東地方で発生した享徳の乱で千葉宗家を攻め滅ぼし家督を奪うが、室町幕府から派遣された同族の東常縁によって討伐された。

 

大須賀山(堂の山)

地輪に『寛永十四丁丑天 二月十一日 建立 アーンク(梵字) 朝雅(?) 宥光 二親 宥得』と刻まれている。

馬加康胤の首塚に建てられた五輪塔なのだから、馬加康胤を供養するためのものなのかと思いきや、どうやら違うらしい。

堂の山に寺院があった頃、何か供養するため建立されたらしいが、五輪塔が建立された理由は未だ判明していない。

いちのまる
いちのまる

『二親』とあるから僧侶が両親を弔うために建てたという説もあるようです。

 

終わりに

大須賀山(堂の山)

私は五輪塔を見るといつも『かわいい』と思う。

小さいのも大きいのも変わらず愛らしい。

五輪塔は密教と関わりの深い石塔で平安時代頃から供養塔や墓として建てられるようになった。

構造は下から地輪(方形)、水輪(球形)、火輪(三角形)、風輪(半球形)、空輪(宝珠形)からなっていて、これは宇宙を形成す五大元素を表しているそうだ。

いちのまる
いちのまる

最後は心霊スポットのサイトらしく〆ようかと思います。

康胤の首は京都東寺四塚に晒されたともいうが、密かに家臣により盗み出され、この大須賀山に埋められたともいう。

康胤の家臣らは、名字官名を捨て、郷侍あるいは百姓となり、付近の村々、海岸近くに移り住み、これを『馬加郷新間宿』と名づけた。

1463年(寛正4年)、郷内に火の玉が飛ぶという奇怪な現象が起き、念仏堂を建立。

1468年(応仁2年)、大須賀山で『屋形[馬加康胤]の家臣共討死せし人の霊祭供養』を執行したという(以上、『素加天王社』)

千葉市の遺跡を歩く会 大須賀山(堂ノ山)より

『千葉市の遺跡を歩く会』というサイトに気になる一説があったので引用させていただいた。

大須賀山(堂の山)は500年もの長い歴史を持つ怪奇スポットである。

ここが開発によって切り崩されず現存する意味が分かるような気がした。

どこぞの首塚のようにぞんざいに扱うと祟られて死人が出ると噂される類のものであろう。

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