足利市指定史跡の岩井山城(別称・勧農城)。
渡良瀬川沿い東西160m、南北200mの丘陵に築かれた中世の平山城である。
山内上杉氏の重臣である足利長尾氏の初代・景人が1466年(文正1)に足利の代官として入封して築いたのが始まりだと伝わる。
岩井山城の場所
駐車場は用意されていないが、城跡入口に広めの空スペースがあるので自動車でも行ける。
この辺りの道に詳しくないと辿り着くのに少々難儀するかもしれない。
分かり易いのは県道8号(足利館林線)の足利警察署前交差点を渡良瀬川方面に曲がる道筋だと思う。
そのまま道なりに進み岩井橋を渡った先の丁字路を右折すると城跡に着く。
岩井山城遠望。
本丸、二の丸、三の丸、物見台があったそうだ。2000年(平成12)の発掘調査で石垣の遺構が発見された。
地図を見るとよくわかるが、城跡のある丘陵に渡良瀬川が殆ど直角にぶつかり南へ迂回して流れている。強固な岩盤がそうさせているらしい。
戦国時代の足利の中枢が何処だったのか知らないが、現在と変わらないのであれば、位置からして足利の街を守る重要な城だったのであろう。
足利長尾氏は1466年(文正1)から120年以上に亘って足利を統治した。
初代・長尾景人の息子である長尾景長の代に岩井山城からより防御の堅い足利城に居城を移動している。
その後の岩井山城は支城としての役割を果たし、1590年(天正18)の豊臣秀吉による北条征伐の後に廃城となったとされている。
岩井山城はどういうわけか心霊スポットとして紹介されることがある。
1487年(長享1)の『長享の乱』で岩井山城のめぐる戦いが起きているが、どれ程の被害があったのかは分からない。古戦場であるからそういう噂が流れても不思議ではないけれど、恐らくこの合戦は関係ないと思う。
関東管領の継承権を持ち室町時代前期~中期まで絶大な力を誇った両家ですが、戦国時代に入ると武田、上杉、後北条に翻弄されて沒落してしまいます。
まさに『盛者必衰の理をあらわす』です。
現地案内板より引用
1947年(昭和22)9月に発生したカスリーン台風により渡良瀬川流域では709名、足利市では319名の命が失われた。
特に被害が酷かったのが、岩井山城の北にある十念寺堤の決壊による洪水であった。それ故に岩井山城に心霊の噂が流れているのではないかと当て推量してみる。被害状況のわからない大昔の合戦よりも説得力があるように思える。
しかしまぁ、心霊スポットを巡る旅を始めてから何度カスリーン台風の名前を聞いただろうか?この台風の被害が如何に甚大だったかが容易に想像できる。
終わりに
これらは岩井山城の対岸にあるカスリーン台風にまつわる慰霊塔や地蔵尊。合せて災害状況や被災した足利市の古写真等を説明する案内板が置かれていた。
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