いにしえより霊魂の集う名刹!霊験あらたかな岩船山高勝寺へ参拝してきた

高勝寺

当山は太古の昔より、死者の霊の集まる処、霊魂の故郷といわれている。

岩船山高勝寺HPより引用

これぞ真の心霊スポットである。

オカルトサイトで岩船山高勝寺を検索すると首吊りをした霊が悪さするとか飛び降り自殺した人の霊が云々と紹介されているが、高勝寺の公式HPを読んで本当にどうでも良くなってしまった。

遥か昔から数多の霊が集う古刹。

ここ最近に自死して仲間に入ったばかりの幽霊等が、どうして諸先輩方を差し置いて存在感を発揮出来ようか?(本当にここで自殺があったかどうか知らないが)

それでは岩船山高勝寺の気になる歴史を調べてみよう!

 

岩船山高勝寺へのアクセス

岩舟山高勝寺

最寄りの駅はJR岩船駅。険しい道のりになるが健脚者なら問題なく辿り着けるだろう。

境内に駐車場があるので自動車でも行けるけれども、道中狭く急勾配なため運転に自信のない方は危険かもしれない。

道の状態によっては四駆でないと登らない可能性もある。

 

 

岩船山高勝寺の歴史

岩船山高勝寺

下野新聞社が1931年(昭和6)に発行した野州名鑑で高勝寺の歴史が紹介されているので引用する。

岩船山高勝寺は人皇四十九代光仁天皇の御宇伯耆國久修練行の僧弘誓坊明願あり日常生身地藏尊を拜し奉らん事を大智明神に祈請せしに一夜夢裡に明神示現下野岩船山は地藏大士、有縁の靈刹常留錫し彼處に詣ば必ず拜す可しと神論被りければ

野州名鑑より

光仁天皇の治世に伯耆国(鳥取県の一部)で功徳を積んだ僧侶の僧弘誓坊明願が大智明神に生身地蔵を信仰することを誓った。するとある夜に夢のなかで大智明神が現れ『下野の岩船山は地蔵菩薩の教えに縁のある霊験あらたかな場所だから、あそこに詣でたなら必ず拝するべきである。』と神の言葉をいただけば、
いちのまる
いちのまる

訳はかなり適当です。悪しからず。

岩船山高勝寺

寶龜八年錫を曳き當山を尋ね半腹に登る傍に草庵あり老比丘唱名しあれば明願稽首神論の意を陳れば比丘曰、月の十八廿四日大士出現せば導き拜す可し

野州名鑑より

777年(宝亀8)、錫杖を携え当山を尋ね中腹に登った辺りに草庵があった。そこで老僧侶が念仏を唱えていたので、明願は恭しく拝礼し神の言葉の意味を尋ねると老僧侶は『月の18、24日に地蔵菩薩が現れるので連れていくから拝みましょう。』と言った。

 

岩船山高勝寺

懇に同宿を許す當日の至るを待ち岩間を攀ぢ行く事數丁北隅の岩頭に達し拝すべしと告るや忽然として大士應化し光明爛々として十方界を照す異香粉々として四圍を薫ず明願不思議の靈瑞を感見し此靈刹に在りて永く大士に奉事せんと誓ひ

野州名鑑より

親しくなって同宿を許され当日になるのを待つ。岩間をよじ登って行くこと数丁、北隅の岩頭に達して拝んだ。すると地蔵菩薩が姿を現し、光り輝いて全てを照らし、素晴らしい香りが周囲を薫じた。明願は不思議なめでたい知らせを感じ取り、この寺で永く地蔵菩薩にお仕えしようと誓った。

 

岩船山高勝寺

一度伯の大山に歸る翌年九年再び來山尋るに草庵には大士のみましまし老比丘あらざれば里人尋誰知者非、更渇仰肝銘し改て堂宇營み尊像遷す普く道俗勸誘して瞻礼せしめ現當福利蒙んと今の本尊是なり

野州名鑑より

一度、明願は伯耆国の大山に帰る。
翌年9年に再び岩船山に訪れると草庵には地蔵菩薩がいらっしゃるのみで老僧侶がいなくなっていた。里の人々に老僧侶の行方を聞いてみたが誰も知る者はいなかった。
さらに深く感銘を受け改めて堂宇を営み尊像を遷した。広く様々な人々を勧誘して礼拝させて現世と来世の幸福と御利益をいただこうと、今の本尊はこれである。

 

岩船山高勝寺

元應年間新田義貞厚く尊信供田二十石を寄附德川氏に至り改て朱印地とし永く下附せらる明治三年上知令に從て奉還す

野州名鑑より

元応年間、新田義貞が厚く崇め信仰し供田20石を寄附、徳川氏の時代に改めて朱印地として永く与えられ、明治3年に上知令に従って奉還した
いちのまる
いちのまる

生身の地蔵は死者の霊を迎えるだけじゃなくて『子授け、子育て、安産』なんかの生に関係する御利益もあると云われているみたい。

 

終わりに

岩船山高勝寺

かつてここには奥の院へ続く地蔵橋と呼ばれる赤い橋が架かっていたが、2011年(平成23)3月11日に発生した東日本大震災によって崩れ落ちてしまった。写真を拡大すると対岸の岩山に橋の名残が僅かに見える。

奥の院は手前に遷座されたので、あの岩山には何も残されていないのだろう。どんな場所だったのか気になるところだ。

それにしても太陽光パネルが雜望的に景観を損ねている。とても残念だ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました