三鷹、府中、調布の三市に跨る武蔵野の森公園。
伊豆諸島への玄関口となる調布飛行場を囲うような立地にある。
公園北側には掩体壕と呼ばれる戦争史跡が残されており、軍事施設として利用された過去を呼び起こす。掩体壕は戦闘機などを爆撃から守るために設置されたシェルターの事で、ここでは主に飛燕と呼ばれる戦闘機を格納していた。
それでは武蔵野の森公園の歴史を振り返ってみよう。
調布飛行場の歴史
1938年(昭和13)、東京府北多摩郡におよそ50万坪の飛行場建設計画が立つ。元々この土地に住んでいた人々は半強制的に買収され立ち退かざるを得なかった。
1939年(昭和14)に着工。府中刑務所の受刑者や中学生などを動員して工事が進む。
1941年(昭和16)に完成。当初は予備の国際飛行場、試験場、及び陸軍の訓練飛行場として使用する予定だったが、戦争の激化によって陸軍専用の飛行場となり戦闘機の飛燕を中心とした部隊が配置された。
1945年(昭和20)、米国による本土爆撃が本格的になると迎撃のために調布飛行場からも戦闘機が出撃している。そのため米軍から狙われ飛行場の近辺が攻撃に晒された。近くの高射砲陣地では死傷者が出たと云う。
出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1961/08/16(昭36)撮影)
戦後、米軍は調布飛行場を占領。西側には大規模水耕農場が建設された。
上記航空写真の左側に写る均整な長方形の土地が農場である。
現在の調布飛行場の滑走路は一直線だが、かつては南側に短い滑走路があったことが分かる。
出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1971/04/30(昭46)撮影)
1963年(昭和38)、渋谷区代々木にあった米軍住宅のワシントンハイツが東京オリンピックを切っ掛けに返還された。代替地として当地が選ばれ800戸以上、4000人を超えるアメリカ人が調布飛行場の隣に居住した。これを関東村と呼んだ。
1973年(昭和48)3月31日に飛行場が、1974年(昭和49)12月10日に関東村が日本へ全面返還された。
2000年(平成12)、関東村の跡地に武蔵野の森公園が造園され現在に至る。
終わりに
武蔵野の森公園には兵隊の幽霊が出るという噂がある。
軍事施設として利用されていた過去を考えれば辻褄が合わなくもない。
戦争を賛美するつもりは毛頭ないけれど、もし兵隊の霊が出るならば、私たちにとっての英霊だろうから、むやみやたらに恐れず先祖を敬うような心待ちで接すればいいと思う。
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