1590年(天正18)、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条早雲から5代続いた後北条氏は滅びた。
この石垣山には小田原を攻める秀吉の本陣が置かれた。
一夜にして築かれたという伝説から石垣山の一夜城と呼ばれている。
史書に残された石垣山城の記述をピックアップして、その風景と共にお届けしようかと思う。
石垣山城へのアクセス
最寄りの駅はJR東海道本線『早川駅』、箱根登山鉄道『入生田駅』。
どちらの駅からも徒歩で1時間程の距離にある。急勾配の坂をずっと登り続けなければならないので運動不足の者は酷い目に遭う。
駐車場が完備されているから自動車で向かうのが無難だろう。どの方面から向かうかによってルートが異なるので、道を知らなければカーナビかgoogleマップのナビを利用すべきである。
運転が出来ないならタクシーか徒歩しかない。
歴史書から見る石垣山城
石垣山
明應中北條早雲。小田原城ヲ攻ル時。牛角ニ松炬ヲ結付。此山ヘ攻登リシコト見ユ。小田原記曰。夜討ノ時刻モ來リケレバ。千頭ノ牛ニ角ゴトニ松明ヲ結付。夜ニ入テ小田原ノ上ナル。石ガケ山箱根山ヘ追カケ〱上テ云々。
新編相模国風土記稿 第2輯 足柄下郡より
後北条氏の始祖である伊勢宗瑞(北条早雲)が火牛の計を用いて小田原城を攻め落としたシーンである。
早雲による小田原攻城戦は伝説の域を出ておらず、史実ではないとされている。
文中の『石ガケ山』が現在の石垣山のことであろう。
松田憲秀嚮ニ秀吉ヘ密ニ通シ居ケルカ又密ニ秀吉ヘ告テ曰小田原城ノ西南ニ當テ笠懸山ト云フ高山アリ最険阻ノ地ナリ是ニ登テ望メハ城中眼下ニアリ
大三川志より
石垣山はかつて笠懸山と呼ばれていたらしい。
徳川氏の歴史を記した大三川志にその記述が見受けられる。
内応に靡いた後北条の重臣・松田憲秀は『笠懸山(石垣山)を取れば小田原城下が見渡せる』と秀吉に進言したと云う。
この松田憲秀は戦後に不忠を咎められ切腹を命じられている。
松田味方ハカヤウニ調ヘヒソカニ関白殿ヘ申ケルハ城ノ西南ノ角石垣山ト申ハ嶮難ノ地クツキヤウノ要害也箱根山ノ前ヨリ樵夫ノ通ル道ノ候ソレヨリヒソカニ御人衆ヲ上ラレ御陣ヲメサレ小田原ヲ目ノ下ニ御覧候ハヽ
小田原記より
大三川志の記述は、恐らく小田原記のこの部分がベースになっていると思われるが、小田原記では石垣山の名称が使われている。
大三川志の笠懸山は一体何処から出てきたのだろうか?
人衆ヲ石垣山ノ松森ノ間ヘ上ケ陣屋ヲツクリ矢倉ヲ上ケ四方ノ壁ヲ杦原ニテハリシカハ一夜ノ中ニ白壁屋形出来ケルサテ普請出来ケレハ関白殿陣座有リ城ノ前ノ松ノ枝トモ切リスカシケレハ小田原勢肝ヲツフシ関白ハ天狗カ神カ加様ニ一夜ノ中ニ見事成屋形出来ケルソヤト松田カヲシエタルトハ夢ニモ不知諸人恐怖ノ思ヒヲナスモ理リナリ
小田原記より
一夜城として語り継がれてきたが、調査と研究によって『着工から竣工まで約80日』が定説となっている。
後北条方もある程度の情報は掴んでいたでしょうが『これ程までとは…。』という感じになったのではないかと想像しています。
石垣山城が竣工して直ぐに後北条氏は小田原城を開城している。関東各地に点在していた支城が悉く攻略され、目と鼻の先に本陣を構えられたら戦意を失うもの当然である。
或時秀吉 東照宮ヲ招請シ奉リ。此山ノ出先ニテ小田原城内ヲ一望シ、落城ノ後ハ關左八州ヲ御料國ニ參ラセ。江戸ヲ以テ御居城ニ定ヲルベシト御約諾アリ。
新編相模国風土記稿 第2輯 足柄下郡
これは石垣山城で豊臣秀吉が徳川家康に『小田原城が落城した後は、関東を預ける。江戸に居城を構えるべし。』と伝えた場面である。このとき秀吉が家康を立小便に誘って『関東行き』を告げたという逸話もあるようだ。
また出典は見つけられなかったが、小田原征伐に遅参した伊達政宗が秀吉の前に白装束を纏って参じた有名な逸話の舞台も石垣山城だったと云われている。
石垣山城と心霊
石垣山城には心霊スポットの噂があるらしい。
直接的な戦いは無いはずなので不思議に思ったが、心霊系のサイトを確認すると『あまりに早急な普請に多くの人夫が事故や過労で亡くなって云々』と紹介されていた。
私は幽霊が見えないし感じないので本当の所は知る由も無いのだけれども、この根拠に素直に納得出来なかった。史実としてそういう話が残っていれば理解出来なくも無いが…。
終わりに
石垣山城から眺める相模湾。
豊臣の名立たる武将の軍勢に包囲された小田原勢は生きた心地がしなかったことだろう。反対に秀吉はその光景を眺めて悦に浸っていたに相違ない。石垣山城の築城は豊臣の権勢を示すための演出的な意味合いが強かった。築城せずとも勝っていただろうから。
後北条氏はこの戦いによって戦国大名としては滅亡してしまったが、暫くして分流は赦され所領を与えられている。徳川政権では狭山(大阪)の藩主に任じられている。養子を迎えつつ明治維新まで存続し、戊辰戦争では新政府側の味方に付き華族に列せられた。
コメント