八號 東京市ヨリ山梨縣廳所在地ニ達スル路線 經過地 一號路線(東京市日本橋區通一丁目ニ於テ分岐) 八王子市 神奈川縣津久井郡小原町 山梨縣北津留郡上野原町
内務省告示第二十八號 國道ノ路線左ノ通認定スより
1920年(大正9)4月1日に発布された道路法令である。
上野原町から県庁所在地の甲府市まではだいぶ距離があるが、その区間の通過点は記されていない。どうやらこの時点ではより距離の近い笹子峠を越えていたようだ。
國道八號路線中其ノ一部ヲ變更シ大正九年四月内務省告示第二十八號八號路線經過地ノ表示中「山梨縣北都留郡上野原町」ノ次ニ「山梨縣南都留郡河口村」ヲ加フ
昭和四年十一月二十日
内務省告示第三四五號 國道八號路線中變更シより
国道8号の一部を変更する。1920年(大正9)4月発布の内務省告示第28号にある国道8号の経過地の表示中『山梨県北都留郡上野原町』の次に『山梨県南都留郡河口村』を加える。
1929年(昭和4)11月20日
1929年(昭和4)、笹子越えをしていた国道8号のルートを御坂越えに変更したという内容である。厳密には異なると思うが、当時の国道8号は現在の国道20号と考えて差し支えないと思う。因みに現在の国道8号は京都府京都市から新潟県新潟市を結ぶ道となっている。
御坂越えは河口湖方面へ遠回りしなければならないのだが、どのような意図があったのだろうか?気になるところだ。
御坂隧道は上記の路線変更を受け、1931年(昭和6)に開通した延長394m、幅5.5mの道路トンネルである。
トンネルが竣工されるまでは黒岳と御坂山の鞍部を通過する険しい旧御坂峠を通らねばならなかった。麓の標高は約830m、峠の最高点は1525m。標高差約700m。両区間の距離は3.5~4kmしかない。昔の地図を見ると峠道は殆ど一直線であり、相当な急勾配の峠道だったことが分かる。
新しい御坂峠には自動車が通れるようにつづら折れが敷設され最高地点に御坂隧道が通った。
1952年(昭和27)、新たに定められた道路法で一級国道となった笹子越え(国道20号)が東京~甲府のメインルートに戻っている。(御坂ルートの国道137号・139号は二級国道に指定された)
その後、1967年(昭和42)に新御坂トンネルが開通したため御坂隧道は現役を退いた。
坑口部の意匠は比較的に簡素だが,県内交通の近代化を知る上で欠くことのできない存在である。
文化庁 国指定文化財等データベース 御坂隧道より
という理由で1997年(平成9)12月12日に御坂隧道は国の登録有形文化財に登録された。
幽霊が出るって噂があるみたいだけど、理由はさっぱりわかりません。古めかしいトンネルは暗いし狭いから恐怖の対象として見られてしまうのかもしれませんね。
終わりに
写真は御坂隧道の富士河口湖町側にある天下茶屋。
創建は1934年(昭和9)の秋の日。井伏鱒二や太宰治などの文人が滞在したと云う。
御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。
太宰治 著 富嶽百景より
御坂峠から眺望する富士を語る太宰治の随筆である。御坂隧道の名称は出てこないが『峠ちかくのトンネル』を通るシーンがちょっとだけ描写されている。青空文庫で読めるので興味のある方は↑のリンクから読んで見るといい。
天下茶屋の二階には太宰治が逗留していた部屋が復元されて、また茶屋付近には太宰が玉川上水で入水した後に井伏鱒二らが建てた太宰治文学碑が安置されている。富嶽百景の一文である『富士には月見草がよく似合ふ』が表面に刻まれ、碑陰には『惜しむべき作家太宰治君の碑のために記す』と井伏鱒二の言葉が綴られている。
“井伏さんは悪人です”
晩年の太宰治は師匠である井伏鱒二に何を思ったのだろうか?
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