東郷神社は都会の喧騒の中、静かに佇む神聖な場所。

雰囲気が大好きでよく訪れたものです。
勝利の神様が祀られているということで、クソ真面目に仕事をしていたときは『いい結果が出ますように!』と参拝して御守りを買いに来たものです。歳を取って適度に仕事をすることを覚えてしまいましたが……。
恐らく私の人生で東京に長期間滞在することはもうないと思うので最後の記念に訪問しました。
東郷神社の場所
明治通り沿いにあります。原宿の竹下口(竹下通り)の近くで、原宿駅から徒歩5分~10分程度の距離にです。
東郷神社境内
写真だと閑静な感じですが、近くに原宿駅があります。
凄まじい人口密度を誇る竹下通りもすぐそこです。
東郷平八郎とZ旗
凄い旗の数です。

Z旗(青、黄、黒、赤のやつ)かっこいいですね。
Z旗は船同士の意思疎通のために使われる信号の役割を持っています。
アルファベットの『Z』の文字を表す他『引き船が欲しい』や『投網中だから近づくな』という意味があります。東郷平八郎はバルチック艦隊を破った日本海海戦(日露戦争)で皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨという激励の意味を込めて戦艦・三笠のマストに掲げました。
そのため日本ではZ旗を勝利のシンボルして扱うこともあります。
第一駆逐隊灯籠
この燈篭は青春を国に捧げ若くして戦に殉じられた勇敢な戦友と
最後まで海上で戦い抜き戦後の復旧に尽力物故した乗員の霊を慰め
我が国永遠の平和を念願して駆逐艦神風会が
駆逐艦波風会有志及び司令各艦乗員御遺族ならびに
この主旨に賛同の方々の協力をえて建立奉納したものである
東郷神社境内 第一駆逐隊灯籠の説明より
駆逐艦は水雷艇を撃退する軍艦のこと。
駆逐艦は早くて小回りが利くので偵察、攻撃、護衛と様々な役割があります。元々は水雷艇を駆逐する軍艦でしたが『駆逐艦に魚雷を積めばよくない?』と誰かが言い出したため、水雷艇は1937年(昭和12)に竣工された鴻型水雷艇以降は造られなくなりました。
水交神社の鳥居
入口からしばらく歩くと風情ある風景が広がります。
写真は水交神社の鳥居。なにか私の心に響くものがあったのか、ここの風景をスマホの待ち受けにしていた時期があります。この鳥居は築地の海軍用地にあった神社から移築してきたものです。(厳密に言うと何回か移転を繰り返しここに来た)
関東大震災、東京大空襲の二度の災禍を免れた運のよい鳥居です。
海軍経理学校正門敷石
大日本帝国海軍の海軍主計科の基幹要員を育てた学校正門の敷石。
今で言う総務、経理を学ぶ学校ってことかな。主計科士官になれれば戦死する可能性が減るとか。前線に向かう必要があまりないので。
でも戦争で兵站の管理って非常に大事なことですから優秀な人が務めなければ敗戦必須です。
魚雷模型
旧海軍館にあった魚雷の模型。
実際の魚雷はもう少し大きいそうです。ちなみに海軍館があった場所には原宿警察署が建っています。
東郷蔵
麹町三番町にあった東郷邸は戦災により土蔵だけ残して焼失してしまいました。
その土蔵を東郷神社境内に移築。移築後30年の月日が経ち損傷が激しくなったため新築したもの。
というわけでこの蔵は本物ではありません。
東郷神社 拝殿
拝殿です。ここで勝利を願いましょう!
海の宮
御祭神として海軍・海事・水産関係者また崇敬者の諸霊を合祀奉斎しているそうです。
東郷平八郎の軌跡
薩摩武士の子として生まれた平八郎は17才になった1863年鹿児島砲撃にきた英国艦隊と戦った。彼は海からくる敵を防ぐため海軍に入ろうと志し、英国留学を熱望した。
現地案内板より引用
だそうです。
戊辰戦争などで7年間苦労した末、明治4年(1871)待望の英国留学が実現して航海術などを学んだ。途中帆走の練習船で世界一周の遠洋航海も行った。
現地案内板より引用
ふむふむ。
海軍士官になった平八郎は明治26年(1893)浪速艦長としてホノルルに派遣され、王制が倒れたハワイの居留民保護に任じた。
現地案内板より引用
東郷さん、ハワイにも行ったのね。
日露戦争直前に聯合艦隊司令長官に任ぜられ、明治37年(1904)2月大詔を拝受して威風堂々佐世保を出撃し、まず旅順の敵艦隊を攻めた。
現地案内板より引用
この時56歳。
旅順の敵艦隊を封じこめて陸軍部隊を安全に遼東半島に揚げるため、商船を港口に沈める閉塞戦を決行した。任務を果たしてボートで帰る途中、広瀬中佐は壮烈な戦死をとげた。
現地案内板より引用
広瀬中佐については↓
青山墓地に彼のお墓があります。
明治37年8月、旅順の敵艦隊はウラジオへ逃れようとした。聯合艦隊はこれを黄海に迎え撃って大損害を与えたので敵は旅順に逃げかえった。(海戦の実写)
現地案内板より引用
大勝利黄海海戦!
旅順艦隊が全滅したので一たん内地へ帰った東郷司令長官は明治天皇の御前で、来攻するバルチック艦隊に対して「誓ってこれを撃滅いたします。」と固い決意を申し上げた。
現地案内板より引用
日本海海戦。打倒バルチック艦隊!
韓国南岸の鎮海湾で敵発見の報告を受けた東郷司令長官は、直ちに出撃し旗艦三笠に「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」を意味するZ旗を高く掲げさせた。
現地案内板より引用
東城鉦太郎が描いた三笠艦橋の図。有名な絵ですね。
敵前で大回頭を決行し、敵の前路を丁字形にさえぎってわが聯合艦隊は猛撃を加えた。
現地案内板より引用
じつは丁字になっていなかった説が濃厚らしい。
わが猛攻撃のため敵艦は次々と大損害をこうむった。特に新鋭戦艦オスラビヤは大火災を起こし、まっ先に沈んだ。
現地案内板より引用
バルチック艦隊は遠方(ヨーロッパ側)から周ってきたので疲労困憊だったのです。
日が暮れると東郷司令長官は駆逐艦・水雷艇に魚雷攻撃を命じた。これら小艦艇は弾雨をおかして敵艦に迫り、その数隻を撃沈した。
現地案内板より引用
額縁の中は写真なのか?反射しちゃったかな……。
海戦第2日の明治38年(1905)5月28日残った敵艦はわが艦隊に囲まれて降伏した。右手の2本煙突が旗艦ニコライ1世。(実写)
現地案内板より引用
戦艦インペラートル・ニコライ1世はその後、戦艦壱岐として大日本帝国海軍へ編入。1915年に戦艦金剛、比叡の標的艦として撃沈処分されました。
日露戦争が終り、聯合艦隊は横浜沖で凱旋観艦式を行ない、捕獲した軍艦や英米の軍艦も参加した。御召艦浅間の後艦橋で東郷司令長官は明治天皇にご説明申し上げた。
現地案内板より引用
日本海海戦は日本の圧勝。
大正3年(1914)皇太子であられた昭和天皇は学習院初等科御卒業後の7年間、東宮後学問所で特別の学習をされた。東郷元帥は、その総裁を命ぜられ、老躯をむちうって誠心誠意大任を果たした。
現地案内板より引用
東宮御学問所総裁に就任し若者を教育。その中には後の昭和天皇もいました。
終わりに
戦艦三笠内の写真より編集引用

最近まで存命だった(って言っても30年位前だけど)人物が東郷平八郎の教育を受けていた考えると不思議な気持ちになります。
東郷平八郎の人生については↓
おしまい!
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