明治時代に活躍した将軍・乃木希典はなぜか愚将、凡将と評されることが多いです。
私もこの時代に興味を持ち小説や映画を見始めた頃は『このおっさん、兵に突撃命令ばかりして酷い指揮官だな……』なんて思っていました。
しかし色々と調べていくうちに一概に無能と評価されているわけではないということを知り、徐々に乃木さんに対する見方が変わっていきました。
さて、今回は彼が祀られる東京都港区赤坂の乃木神社と晩年を過ごした旧乃木邸の風景を紹介しつつ、乃木希典の生涯について書いていきます。
それではお付き合いください。
乃木神社と旧乃木邸へのアクセス
電車で行きましょう!どちらも千代田線の乃木坂駅1番出口からすぐのところにあります。
自動車でも付近の駐車場に停めれば行けますがおすすめしません。この辺りに慣れていないと多分迷いますし、駐車場代がかなり高いです。
渋谷方面からなら六本木通り(都道412号)の六本木交差点を左折し外苑東通りに入ります。東京ミッドタウンを越えると信号があるのでそこを右折。坂道を下り信号を右折すると左に乃木神社があります。
どこから向かうかによって変わりますので自動車で向かうならgoogle mapかカーナビで調べて行くのを推奨します。
乃木希典の生涯
現地案内板より
乃木希典は1849年(嘉永2)に長州藩(山口県)の支藩である長府藩の江戸藩邸で生まれました。子供の頃は心身が弱くビビりでよく泣いていたといいます。
10歳くらいのときに大人の事情で長州へ戻り学者を目指して勉学に勤しみます。
このとき吉田松陰の叔父である玉木文之進に弟子入りしました。その傍ら武術の修行もしっかりと行っていたようです。
初陣、第二次長州征伐
初陣は江戸幕府による第二次長州征伐のときです。長府藩報国隊として参加し奇兵隊の山縣有朋の指揮下で戦いました。
これは幕府と長州藩の戦いなので負けたら廃藩にされてしまう可能性がある絶望的な諍いですが、なんと長州藩が勝ってしまいます。

まぁ、死に物狂いの長州とやる気のない幕府。最新武器を持つ長州と旧式武器の幕府。指揮官の能力の差。傍観を決め込んだ強力な諸藩。様々な理由があって幕府が勝てるはずがない戦いではありました。
士族の反乱を征伐
その後、学者の道ではなく軍人の道を目指して邁進します。
明治時代に入り22歳のとき大日本帝国陸軍の少佐に任官。1876年(明治9)に起きた秋月の乱では小倉鎮台を率いてこれを治めます。
西南戦争での失態
乃木さんは日本最大の内乱・西南戦争にも従軍しています。
この戦いで西郷軍に連隊旗を奪われてしまいました。連隊旗を奪われるということは軍人にとって大変不名誉なことらしく、責任感の強い彼は自責の念に苛まれ死に場所を探し求めるようになります。これが彼の死因に繋がります。
戦い自体は不利な状況で最終的に一時退却してしまったものの奮闘しよく持ちこたえました。連隊旗のことが頭にあったのでしょう。乃木さんは何発もの銃弾を受けても、なお戦い続けたといわれます。
戦後、死にきれなかったことを嘆き自殺しようとしたところ同郷で同じ少佐の児玉源太郎に止められたというエピソードも残っているようです。
乱れる私生活
西南戦争後、乃木さんは放蕩三昧。生活が荒れに荒れます。現実逃避でしょうか。
母が変わり果てた息子の姿を見てどうにかしなければと思い結婚を勧めます。彼は断り続けましたが、余りに母がしつこいので抗しがたく妻を娶ります。
これが生涯の伴侶となり共に死ぬことになる静子です。結婚したもののしばらくの間は乱れた生活を続けていたみたいです。
ドイツへ留学→別人に
1880年(明治13)に大佐、1885年(明治18)には少将へと昇格しています。
本人は西南戦争で死を覚悟するほどの失態を起こしたと思っているのに昇格です。放蕩生活を送っていましたが、仕事はしっかりやっていたのでしょう。
この頃に2人の息子に恵まれます。名前を勝典、保典といいます。
1887年(明治20)に政府の命令で川上操六とドイツへ留学しドイツ式軍隊を学びました。上司の大山巌に提出した復命書には軍規の重要さが綴られていたそうです。渡航前は酷く荒れていた乃木さんですが、ドイツから帰ってくると別人になり、まるで厳しい軍規の権化のようになりました。
休職して農業を
1892年(明治25)、病気を理由に休職。上司とそりが合わなかったから休職したともいわれます。
栃木県の那須に土地を買い、ここで農業に励みました。
上の写真は旧乃木邸の菜園ですが、乃木さんが農業にこだわるのは子供の頃、お世話になった玉木文之進の影響でしょう。
日清戦争での活躍
10ヶ月後に復職。1894年(明治27)に日清戦争が起こるとこれに出征。乃木さんは歩兵第1旅団を率い難攻不落といわれた旅順要塞を1日で落とすなど大いに活躍しています。
日清戦争の後、締結された下関条約で日本が台湾を統治することになりますが、これに反抗する勢力があったため日本は台湾へ出兵。乃木さんも増援として参軍することになります。
台湾征伐は無事に成功し、乃木さんは台湾総督に任じられます。また、この頃中将へ昇格するとともに男爵となり華族に列せられます。
台湾総督を辞職
乃木さんの台湾統治は全体的に見ると失敗に終わっています。統治自体はそこそこうまくいっていたようですが、理想の軍人像を体現しすぎる彼は部下たちと対立するようになり自ら辞職を願い出ます。
数ヶ月の休職を得て1898年(明治31)、新設された第11師団長に就任。厳しい訓練を行いながらも兵士たちに愛情を注いだといわれています。
しかし部下が馬蹄銀分捕事件に関与したと疑われたことに責任を感じ、また休職してしまいます。ちなみに休職の理由はリウマチです。
開戦!日露戦争
馬蹄銀分捕事件での休職は長く3年程。その間は那須で農作業をしていました。日の出ている間は畑で汗を流し、日が沈んでから勉学に勤しんでいたのでしょう。
1904年(明治37)、日露戦争が始まります。
ここからが本題!
乃木希典が愚将、凡将と評価されてしまう理由はこの戦争にあります。
実際どうだったのか見ていくことにしましょう。
第三軍司令官に任命される
日露戦争の詳細はここでは述べません。開戦時、乃木さんは留守近衛師団長に任命されました。彼は名誉ある師団長を任されたわけですが、この人事は気に行っていなかったようです。将たるもの前線に立ち指揮をとらねばならないという思想があったからでしょう。
どのような経緯があったのかわかりませんが、第三軍が編成されると乃木さんはその司令官に任じられ前線に立つことを許されます。これには大変喜んだそうです。
長男の勝典の死
喜びもつかの間……。中国へ渡る前に長男の勝典が南山の戦いで戦死したと報告を受けます。
勝典,名誉の戦死,満足す,あと文
という電報を妻の静子に送りました。この辺りで陸軍大将に任命。
旅順攻囲戦の総攻撃
第三軍の攻略目標は日清戦争で乃木さんが落とした旅順要塞です。旅順がある遼東半島に上陸し旅順要塞を包囲して三回の総攻撃を仕掛けます。
第一回総攻撃は大本営から早期攻略を求められたため強襲法が採用されます。
しかしロシアが守る旅順要塞は日清戦争のときとは桁違いの守備力を持っており、ロシア側は大した損害を受けず日本の突撃兵を一掃することができました。
この第一回総攻撃で日本は約5000名の戦死者、10000名の戦傷者を出します。一方ロシアは戦死者1500名、戦傷者4500名の被害でした。
第二回総攻撃は兵の無駄死にを避けるため強襲法をやめ正攻法を採ります。
一進一退の凄まじい戦いが繰り広げられます。第一回総攻撃よりも被害を抑えながらロシアに多くの損害を与えましたが、要塞の占領は出来ず失敗に終わりました。
旅順攻囲戦の真実
第三回総攻撃が乃木さんの評価を低くする要因となっています。実際に当時も『乃木を更迭するべし!』という意見も上がったそうです。日本国民の評判も悪くなり乃木邸に罵声を浴びせたり投石したりする民衆が現れました。
小説や映画などでは、しばしば↓のように物語が進みます。
児玉源太郎が英雄視され、乃木さんは兵たちに無謀な突撃を繰り返しさせた愚将であると……。

はて?本当のところどうなのか。ちょっと見てみよう。
・三回にもわたる総攻撃を仕掛け兵士を無駄死にさせた
早期決着が望まれた第一回総攻撃は強襲法で多くの兵を死なせたが、その後は正攻法を採用し無駄に兵を死なせることなく徐々に攻めていった。
戦闘機が無いこの時代においての要塞攻めは奇襲、強襲が基本だったらしくやっていること自体は間違っていない。
・児玉源太郎が攻略目標を二〇三高地に定め速やかにこれを攻略した
乃木大将の日記には11月27日に攻撃目標を二〇三高地にしたという意味の文を書いている。
児玉源太郎が第三軍にやって来たのは12月1日なので、攻略目標を二〇三高地に定めたのは乃木大将である。
・児玉源太郎は乃木大将から指揮権を譲り受けた
満州軍総司令官・大山巌から第三軍に命令していいという訓令を児玉源太郎は持っていたが、使用されることはありませんでした。
多少の指示はしたようですが、最後まで乃木大将が指揮を執りました。
こんな感じです。
歴史専門家によっては『愚将どころか名将だった』というがいるほどです。
私も調べていくうちに乃木さんは愚将、凡将ではなく極めて優秀な指揮官であると思うようになりました。ちなみに第三回総攻撃の際に次男の保典が戦死しています。なんと日露戦争で2人の大切な息子を失ってしまいました。
彼はそれを知り『死んでくれたか……。これで日本国民に申し訳が立つ』みたいなことを言ったとか。自分の指揮によって多くの兵士たちが死んでいったのに自分の息子が生き残っては示しがつかないということでしょう。
凱旋、学習院院長に
日露戦争は日本の辛勝で終結します。旅順要塞攻略後の水師営の会見や奉天会戦など見所はありますが、それらの紹介は他に譲ります。
日本国民は乃木さんの活躍を大いに称えましたが、本人は多くの兵を死なせてしまったことを嘆き『日本に帰りたくない、死んでしまいたい』くらい悲観的だったようです。
1907年(明治40)に明治天皇の勅令で乃木さんは学習院の院長になります。学習院では乃木式と呼ばれる大変厳しい教育法で子供たちを育てました。その中には裕仁親王(後の昭和天皇)もいました。厳しいけど慕われる良き先生だったそうです。
乃木希典、殉死す
1912年(明治45)7月30日。明治天皇が崩御。
大喪儀が行われた9月13日の午後8時。乃木希典は妻の静子と共に自刃、殉死しました。
軍服を着て明治天皇御真影の前に正座。そして軍刀で十字に腹を掻っ捌き首に剣先をあて絶命。遺書は西南戦争で連隊旗を奪われたことの懺悔から始まり、乃木家の今後、所有品について、自身の遺体の処理について書かれていました。
以上が乃木希典の生涯です。
終わりに
殉死については当時から賛否両論あったそうです。皆さんはどう思いますか?私は殉死(自殺)について肯定も否定もしません。文章でしか彼のことは知りえませんが、

なんだか、乃木さんらしい最期だったのではないかな?
と思います。
色々と誤解されることが多い忠義の将・乃木希典のお話でした。
コメント