
1618年(元和4)、小笠原忠真が徳川秀忠の指示を受け、明石城の築城を開始しました。
築城の最大の目的は、西国の諸大名を牽制するためでした。戦国の世が終わったとはいえ、幕府はまだまだ油断ならないと考えていたのでしょう。
西へ睨みを効かせる最前線としての緊張感が、この城には秘められています。
剣豪・宮本武蔵が関わった城下町と庭園


城下町の町割り(まちづくりの計画)には、かの有名な剣豪・宮本武蔵が参加したと伝わっています。
武蔵は明石城内に、城主の遊興所である『樹木屋敷』を設置しました。当時あった場所とは異なりますが、現在は『武蔵の庭園』という名称になって城内に再現されています。
剣豪として名を馳せた宮本武蔵が、どのような思いでこの地のデザインに携わったのか、想像しながら歩くとまた違った景色が見えてきます。
コロコロと変わる城主。江戸幕府の重要拠点としての役割

苦労して明石城を築いた小笠原忠真ですが、1632年(寛永9)に北九州の小倉へと移封となってしまいます。その後、明石城の城主は目まぐるしく入れ替わりました。
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1617年(元和3)〜1632年(寛永9):小笠原氏
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1633年(寛永10)〜1639年(寛永16):戸田松平氏
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1639年(寛永16)〜1649年(慶安2):大久保氏
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1649年(慶安2)〜1679年(延宝7):藤井松平氏
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1679年(延宝7)〜1682年(天和2):本多氏
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1682年(天和2)〜明治維新:越前松平氏
越前松平氏が入封して定着するまで、驚くほど短期間で城主が変わっています。
しかし、よく見ると徳川氏にゆかりのある親藩・譜代大名の家系ばかりです。このことからも、明石城が江戸幕府にとって「絶対に信頼できる者しか置けない」重要な城だったという歴史の背景が浮かび上がってきます。
廃城令から現在の明石公園へ

1873年(明治6)に発布された廃城令により、明石城は廃城となり、その後は民営の公園が設置されました。
1898年(明治31)には皇室の御料地とするため宮内省の管轄となり一度は廃園したものの、結局その計画が立ち消えとなったため、再び開園して現在に至ります。
城内に眠る謎の遺跡「人丸塚」と神仏分離の爪痕

明石城の見どころとして外せないのが、城内にある「人丸塚」という遺跡です。現地の案内板には、以下のような由縁が記されていました。
一、弘仁三年(八一二年)僧空海がここに楊柳寺を建てた
一、仁和のころ(八八〇のころ)住職覚証が柿本人麿公の夢のおつげで人磨公を祀った
一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた
(※人丸塚 案内板より引用)
近くにある月照寺のホームページによると、空海が建立した楊柳寺は後に月照寺と改称され、明石城築城の際に移転されたとあります。
また、柿本人麻呂を祀った社は、明治初期に発布された神仏分離令によって分けられ、現在の「柿本神社」になったと記されています。
終わりに

以上、西の要衝「明石城」の歴史散策でした。

せっかく明石に来たのだから、名物の明石焼を熱々の出汁でいただきたかったなぁ……と後ろ髪を引かれつつ。今回は時間の限られた弾丸旅行だったため、明石城の歴史を深掘りするだけで手一杯になってしまいました。たまには時間を忘れて、一つの街をじっくりと歩き込む旅をしてみたいものです。
おしまい!


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