くらやみ坂を歩く。横浜の監獄&処刑場、戸部刑場跡へ!

くらやみ坂

西戸部縣廳官舍の上丘、平坦な可なり廣い場所が荒るゝに任せて雜草が茂つて居る、草叢の中から蟲の音が淋しく何事か訴へるやうに聞こえて來る、茲ぞ開港當時の戸部御處刑場の舊地である。

横浜の史跡と名勝 戸部の御處刑場趾と暗闇坂より引用

横浜市西区西戸部町のもくせい公園の片隅に小さな祠と『くらやみざか』と記された石柱が建っている。

1859年(安政6)から1899年(明治32)まで、ここには戸部牢屋敷(戸部監獄)があった。

刑場も併設され斬首や磔刑が行われていたそうだ。戸部の刑場で磔にされた壮吉の遺体写真は余りに有名である。

いちのまる
いちのまる

インターネットで『壮吉 磔』と検索するとHITするので興味のある方はどうぞ!
超閲覧注意です。免疫のない方は気分悪くなるかもです。

くらやみ坂の場所

くらやみ坂

最寄りの駅は京急本線の戸部駅。徒歩で約7分。

詳しく↓の地図をご覧あれ。

世の中便利になったものでGoogleMapが無料で案内してくれるのでナビを利用しよう。

 

くらやみ坂について

くらやみ坂

『くらやみ坂』は暗闇坂、或いは鞍止坂とも表記される。

前者は『この付近が木々に覆われていて暗かったから。』『刑場があって不気味な雰囲気だったから。』という意味が込められている。

後者は『急坂だったので人や馬が止まりながら苦労して登った。』または『馬を停める程にここからの景色が抜群だった。』といった感じらしい。

昔は坂の途中に刑死者を弔う慰霊塔が建っていたが、1894年(明治27)に『くらやみ坂』からやや離れた久成寺に移転された。

 

鎌倉事件の清水清次と間宮一

くらやみ坂

1864年(元治1)に発生した鎌倉事件の犯人である清水清次と間宮一は戸部牢屋敷で獄門に処された。

鎌倉事件とは?

日本の武士がイギリス人2名を殺傷した事件。

鎌倉市の若宮大路付近で起きたためこの名で呼ばれる。

日本武士が最後の立派さを見せ、立會つた異人共の度膽を拔いた清水清治や幾度か生れ變つて夷を打たんと辭世を殘して斷頭臺の露と消えた間宮一、

横浜の史跡と名勝 願成寺の墓より引用

いちのまる
いちのまる

なんと過激な…。

歴史を感じさせる文章ですね。

2人は処刑された後、吉田橋にて晒された。

吉田橋は埋め立てられて存在しないが、現地には吉田橋関門跡の石碑が建てられている。

 

鳶の小亀事件

くらやみ坂

1866年(慶応2)、遊郭で乱暴狼藉を働くフランス水兵を殺害した小亀が戸部牢屋敷で斬首された。

港崎遊廓で荒れ狂ふマドロスの頭に、商賣用の鳶口を打ち込んで即死させ、人々の難を救つたとは云え法は曲げられず、罪にとはれた最後の日横濱中の鳶の者から木遣音頭で送られて、『オイ骨は賴むぞ』と小氣味よくも死を急いだ好漢小龜

横浜の史跡と名勝 願成寺の墓より引用

小亀は遊女を救ったという事で英雄視され、見せしめとして行われる市中引き回しはお祭り騒ぎとなった。個別に墓石まで用意され盛大に見送られたそうだ。

 

佐伯今藏の処刑記事

くらやみ坂

1880年(明治13)7月14日の読売新聞に”神奈川縣下武州北多摩郡春木村の佐伯今藏”が横浜裁判所で斬罪の判決を受け戸部監獄署にて打ち首にされたという記事を発見した。

佐伯今藏は自身が売却た田畑に生えていた樹木を薪にするため伐採したため、土地の購入者の佐吉に咎められた。遺恨に思った今藏は1877年(明治10)に佐吉の物置に火を付け、更に佐吉を庇った祐四郎の家も焼き払った。

この他にも明治期の戸部監獄についての記事が幾つか見受けられた。脱獄に関する記事が多かった。

案外ザルな警備だったのだろうか?

 

終わりに

くらやみ坂

手狭となった戸部牢屋敷は1899年(明治32)に閉鎖され、新しく建てられた根岸の監獄(旧横浜刑務所)に役目を譲った。

当時の面影は一切残っていない。

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