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丸亀城の歴史と心霊の噂を解説!石垣と井戸に伝わる悲劇とは【香川】

丸亀城

丸亀城はうどんで有名な香川県丸亀市の亀山(標高66m)に築かれた平山城です。

亀山城、蓬莱城とも呼ばれているそうです。

現存天守12城の一つに数えられ、天守・大手一の門・大手二の門が国の重要文化財に指定されています。少し遅い時間に登城したため、残念ながら建物の中には入れませんでした。

丸亀城の風景と共に、その深い歴史、そして城に纏わる怖い噂を検証していきましょう。

 

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丸亀城へのアクセス・駐車場情報

丸亀城

高松自動車道の善通寺ICか、瀬戸中央自動車道の坂出ICが最寄りの高速出口となります。

いずれも国道11号(坂出丸亀バイパス)に出て、柞原の交差点を丸亀市街地方面に曲がれば到着します。坂出ICからの方が分かりやすいかもしれません。駐車場は公園駐車場と丸亀市立資料館の駐車場が無料で利用でき、両方とも丸亀城のすぐ近くにあります。

電車を利用される場合は、予讃線のJR丸亀駅で下車し、そこから徒歩15分から20分ほどで到着します。

 

生駒氏と丸亀城

丸亀城

慶長二年ノ春、親正、一正、相談ニテ、西讃岐要塞ノ爲メ、那珂郡津ノ森ノ庄、龜山に新城ヲ築ク丸龜城ト號ス

(眞書 讃岐生駒記より引用)

1587年(天正15)、豊臣秀吉によって讃岐国へ封じられた生駒親正は、まず現在の東かがわ市にある引田城に入城しました。

その後、宇多津町の聖通寺城に居城を移します。ところが、両城ともに治平の世に相応しくないと判断し、高松城の築城を開始しました。

そして1597年(慶長2)、生駒親正・一正父子は讃岐国の西側の守りを堅めるため、津森庄の亀山に丸亀城を築きました。

これが丸亀城の起源だと伝わっていますが、亀山にはもっと昔から砦のようなものがあったのではないかといわれています。

 

生駒氏以前の丸亀城

丸亀城

天文年間中細川管領家ニ隨從ノ諸將、阿波屋形ノ家臣居所其聞所ヲ以テコレヲ記ス。

(中略)

鵜足、那珂の二郡ハ奈良氏ノ旗下也。居城は聖通寺山也。其下ノ城々ハ長尾ニ同氏、新目、本目、山脇三氏、法勲寺、金倉寺、三谷寺、圓龜山、其外追考ヘシ。

(南海通記 阿波讃岐兵將居城記より引用)

天文年間中(1532年~1555年)、細川管領家に従っていた諸将、阿波屋形の家臣の居所、その聞き所を以てこれを記す。

(中略)

鵜足、那珂の二郡は奈良氏の支配下である。居城は聖通寺山。その下の城々は長尾に同氏、新目、本目、山脇の三氏。法勲寺、金倉寺、三谷寺、円亀山、そのほかは追って考える。

この「圓龜山」が「円亀山」、そして「丸亀山」に転じたということでしょうか。

奈良氏は南北朝時代辺りに讃岐国の鵜足・那珂の二郡を拝領されたようなので、生駒親正が築城する200年以上も前に、亀山の城が存在した可能性があります。

まぁ私たちが想像する城とは全く別の、簡易的なものだとは思いますが。

 

山崎氏と丸亀城

丸亀城

1597年(慶長2)に築城されたばかりの丸亀城は、1615年(元和1)に幕府から一国一城令が発布されたため、一度は廃城となりました。

寛永十七年生駒讃岐守高俊家臣ノ諍論ニ依テ讃州ヲ召放サレ、羽州由利ノ郡ニ左遷ス。生駒氏讃州ニ主タル事四代年數五十四年ニ竭ヌル也。

(中略)

一 寛永十八年山崎甲斐守西讃岐多度、三野、豊田三郡五万石ヲ賜テ、圓龜山ノ城ニ居住ス。

(南海通記 讃州新高松府記より引用)

1640年(寛永17)、生駒高俊は家臣の論争によって讃岐国を取り上げられ、出羽国由利郡に左遷された。生駒氏が讃州の主になって4代、年数は54年で終わってしまった。

(中略)

一、1641年(寛永18)に山崎家治が西讃岐の多度、三野、豊田の三郡・5万石を賜って、丸亀山の城に居住する。

讃岐高松藩の生駒氏は第4代目・高俊が生駒騒動と呼ばれるお家騒動を起こしたことで改易になり、讃岐国は一時的に近隣大名によって分割統治されます。

南海通記のこの部分では家臣の諍論としか言っていませんが、高俊は男色に耽る放埓な大名だったらしく、それが原因で家中が混乱状態に陥ったといわれています。

その後、讃岐国は東(高松藩)と西(丸亀藩)に分けられ、東讃岐の高松藩には水戸黄門(徳川光圀)の兄である松平頼重が、西讃岐の丸亀藩には肥後国天草の富岡城から山崎家治が入りました。

そして山崎家治が廃城となった丸亀城を基盤に新しく城を築きました。 しかし、山崎氏は3代で断絶してしまいます。

 

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京極氏と丸亀城

丸亀城

萬治元年戊戌二月十七日 嚴有院是ヲ我先公刑部少輔源高和君ニ賜フ、同三月二十三日受取ノ先手トシテ佐々佐脇等ノ諸氏以下二十五人屋村ヨリ船アガリシテ、二十五日城受取リ玉ヒ、四月朔日多羅尾今井等ノ諸氏丸龜ヲ發玉フ、五月五日播磨國龍野城ヨリ公入ラセ玉フ、以來相續テ今ニ至レリ、

(京極家編纂 西讃府志 丸龜治より引用)

万治元年(1658)2月17日、厳有院(徳川家綱)がこれを私の先君である京極高和公に賜う。同3月23日には受け取りの先手として佐々・佐脇などの諸氏以下25人が塩屋村より船で上がり、25日に城を受け取り、4月1日には多羅尾・今井などの諸氏が丸亀を出発し、5月5日に播磨国龍野城より高和公が入られ、それ以降代々受け継がれて今に至る。

丸亀城に入城した京極氏は城の改修、改築を行いました。現在、重要文化財に指定されている天守・大手一の門・大手二の門は京極氏の時代に造られたものです。

その後、1871年(明治4)の廃藩に至るまで京極氏が丸亀の地を統治しました。明治期に発布された廃城令では存城処分になったため、幾つかの建物は壊されず残り、現在に至ります。

歴史についてはここまでです。

最後に丸亀城に纏わるちょっと怖い伝説を紹介して終わりたいと思います。

 

心霊スポット?!二の丸井戸の伝説

丸亀城

石垣を築いた羽坂重三郎が敵に通じるのを恐れたお殿様により、この井戸の底に入っている間に石を落とされて殺されたという伝説が残っている。

(現地案内板 二の丸井戸より引用)

いちのまる
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一体どういうことなのでしょうか。詳細を紐解いてみましょう。

熱心に丸亀城の石垣を築く羽坂重三郎。

ある時、殿様が重三郎に「お前が積んだこの石垣なら誰も攻め登れないな!」と声をかけました。彼はそれに対し「自分なら鉄の棒さえあれば簡単に登れます!」と、ひょいっと登って見せてしまいます。

「敵に登り方を知られてしまったら、こりゃ大変だ!」と殿様は恐れ、重三郎が井戸の底で仕事をしているときに、口封じのために石を落として殺してしまいました。

まさに「口は災いの門」に通じる恐ろしい伝承ですね。

 

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豆腐屋の人柱伝説

丸亀城

原本を見つけることは出来ませんでしたが、『丸亀城ものがたり』という書物に人柱伝説が紹介されているので要約します。

雨の降る夕方、改修作業を行う人夫たち。そこに通りかかった豆腐屋。

人夫たちはなぜかその豆腐屋を捕まえて穴に落とし、生き埋めにしてしまいました……。

それ以降、夕方に雨が降ると、丸亀城では何処からともなく「トーフ、トーフ…」と、人柱になった豆腐屋の泣き声が聞こえるようになったそうです。

ただただ、豆腐屋が気の毒な悲しいお話です。

終わりに

丸亀城

恐らくこれらの伝説は後世の創作であると考えられます。このような曰く付きの伝説が残る城は多いですが、その発端は何処にあるのでしょうか。

知見の無い民衆が城内や殿様を勝手に想像して話を創り上げたのか。それとも、伝説になり得る事故や事件が実際に起きて噂が広がっていったのか。

歴史の面影を辿りながら、こうした人々の心が生み出した伝説の真相に想いを馳せることも、城郭巡りの大きな醍醐味の一つです。

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