伊東四十八城の一つ、宮崎城と悲劇の忠臣・権藤種盛について

宮崎城

宮崎城の史料上の初見は建武三年(一三三六年)で南朝方の図師六郎入道隋円・慈円父子が立てこもっていたことが記されている。別名『池内城』ともよばれている。

宮崎城 跡 説明板より

宮崎城は遅くとも1336年には存在していて、江戸時代の一国一城令によって取り壊されるまでの凡そ600年間存在した。

日向国は1391年以降、島津氏が守護となり、その下で複数の豪族が各地を治めていた。

戦国時代になると伊東氏が頭角を現し、次々と領地拡げ一時は日向国の主要地を支配している。

伊東氏は佐土原城、及び都於郡城を本城とし46の支城で守りを固めた。

これを伊東四十八城という。

この伊東四十八城中に宮崎城も含まれている。

 

宮崎城

宮崎城は宮崎平野を一望出来る峻険な山に築かれた山城で、敵の動向を見守ったり、有事の際の籠城に適した戦のための城であった。

伊東氏の時代は政治の中心地にあった佐土原城と都於郡城を守る役割を果たしたのであろう。

島津氏の日向国侵攻により宮崎城は落城し、1580年(天正8)に島津氏の重臣・上井覚兼が入城している。

上井覚兼が残した『上井覚兼日記』に当時の宮崎城の様子が残されているらしいが、ネット上で原文を読めるものの、私の能力では解読できなかった。

現代訳を読む機会があれば追記するつもりだ。

 

宮崎城

1587年(天正15)、豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が降伏すると、延岡を与えられた高橋元種の家臣・権藤種盛が宮崎城主になっている。

延岡城と宮崎城の間にはかなりの距離がある。理由は分からないが、飛び地として宮崎領の一部を与えられたようだ。

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで宮崎城に悲劇が訪れる。

宮崎城には心霊スポットの噂があるらしいが、これが関係していると思われる。

関ヶ原の戦いで高橋元種は西軍として出陣し岐阜の大垣城に籠城。

宮崎城主の権藤種盛は東軍サイドに付いた伊東氏の家臣・稲津重政が宮崎城を攻撃するという情報を受けて籠城の準備を開始した。

 

宮崎城

宮崎城には僅かな兵しかいなかったため、延岡に援軍要請を行った。

しかし、留守を任されている延岡の重臣たちは理由を付け要請を拒絶した。

権藤種盛は少勢での籠城を余儀なくされ、多勢で攻める稲津重政を迎え撃った。

結果、一日で宮崎城は落城し、将兵は悉く戦死したと云う。

然れども敵は三千百餘人城兵は僅に五百人に過ぎざれば、衆寡敵せす城終に落ち種盛等また戰死せり。

春宵秋暮此墟を遍くれば坐ろに種盛が忠戰の當時を思ひ出で感を催ふすこと殊に深し。

明治32年発行 日州名所案内より

 

宮崎城

権藤種盛の主・高橋元種は西軍の大垣城に籠城していたが、関ヶ原の本戦での西軍大敗の報を受け、東軍を裏切り、内部から大垣城を陷落させている。

この功が認められ所領は安堵され、奪われた宮崎城も返還された。

慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦が終了。
9月17日、高橋元種が東軍に投降。
9月29日、宮崎城の戦いが発生。

つまり、知らず識らずのうちに両者は同士討ちしていたのだ。

宮崎城を放棄し延岡に退却する選択もあっただろうが、主人に義理が立たないと奮戦した。

権藤種盛が悲劇の忠将と語られる所以である。

宮崎城は1615年に発布された一国一城令によって廃城となった。

 

終わりに

宮崎城

最後に宮崎の名の由来と宮崎県が生まれた流れを紹介する。

宮埼郡 飫肥 田邊 島江 江田

倭名類聚鈔 日向國第百三十一より

10世紀後半の辞典・倭名類聚鈔にその名が記されている。

『宮の前』『宮がある場所』が宮崎の名の由来だと云う。

これは日向国で誕生したと伝わる初代天皇・神武天皇に関係しているのかもしれない。

明治時代初期の廃藩置県で日向国は美々津県と都城県に分けられた。

一度、両県は鹿児島県に統合され、後に分立し宮崎県が誕生した。

廃藩置県の直後の南九州は延岡県、高鍋県、佐土原県、人吉県、飫肥県、鹿児島県に分けられ、直ぐに合併された。

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