徳川慶喜のお墓がある谷中霊園を散歩してきた

谷中霊園

心霊スポットの噂がある墓地と無い墓地の違いは何だろうか。

ある程度の規模を持つ霊園であれば未練を残して亡くなった方が一定数いると思うが、霊の定義は曖昧であるし、人によっては見えると云ったり、はたまた見えないと云ったり、何を信じたらよいか知らん。

以前、紹介した青山霊園と同様に、谷中霊園にも歴史上の著名人が多く眠っている。

霊の出没有無は判断しかねるので、ここでは私の出来ることをしよう。

いちのまる
いちのまる

順不同で歴史上の著名人を紹介致します。さて、歴史の復習をしようか!

 

谷中霊園へのアクセス

JR日暮里駅から徒歩5分程度。

やや分かりにくいのだが、東口から出て駅沿いを歩いていると『もみじばし』という駅の上を越える道がある。

この橋を越えるとすぐ霊園に着く。

 

徳川慶喜の墓

谷中霊園

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) 1837年(天保8)~1913年(大正2)

徳川将軍第15代目。

水戸徳川家の第9代・徳川斉昭の七男。

評価の分かれる人物であるが、自身の欲求を追いつつも、時勢を見極める事の出来た優れた御方だと私は考えている。

人生において様々な分岐が訪れるのは誰しもそうであるけれども、彼の場合は身分と時代が重すぎた。

江戸幕府が滅びてからは静岡に居住し写真や狩猟や、囲碁などの趣味に没頭したと云う。

徳川代々の将軍たちは菩提寺の増上寺、寛永寺に葬られているが、彼は谷中霊苑に眠っている。

朝敵となった自分を赦し、爵位まで授けてくれた天皇に感謝の意を示すため、葬儀は仏式ではなく神式で行わせ、明治政府が設けた谷中霊園に皇族と同じ様な円墳を造らせたそうだ。

 

渋沢栄一の墓

谷中霊園

渋沢栄一(しぶさわ えいいち) 1840年(天保11)~1931年(昭和6)

武蔵国(現・埼玉県)の実業家。

2024​年上半期から一万円札の顔となる予定の御方である。

豪農の息子として生を受け、幼い頃から商売の教育を受けていた事が『日本資本主義の父』と呼ばれる下地になったのだろう。

上述した徳川慶喜に仕え幕臣となり、パリ万国博覧会の際には将軍の親族の付添人としてヨーロッパを視察している。

江戸幕府が滅びると、暫くは徳川慶喜の傍で活動していたが、明治政府から招かれ一度は辞退したものの政治の道へ入ってゆく。

政界では大蔵省、つまり国の資金調達に関わる仕事に従事した。

しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し3、4年程で退官している。

その後は実業家として凄まじい程の影響力を持つことになった。

・第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役
・東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)の取締役会長
・熊谷銀行、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)の発起人
・日本勧業銀行、日本興業銀行(現・みずほ銀行)の開業指導
・王子製紙(現・王子ホールディングス)の経営
・東京会議所瓦斯掛(現・東京ガス)の委員
・東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)の発起人
・東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)の発起人
・ジャパンブリュワリー(現・キリンホールディングス)の援助
・東京人造肥料会社(現・日産化学)の創立者の一人
・東京ホテル(現・帝国ホテル)の初代会長
いちのまる
いちのまる

まだまだ、あるのだけれど、もうやめときます…。大河ドラマ【青天を衝け】は渋沢栄一の生涯を追うドラマなので気になる方は観て下さい!私はテレビを置かない派の人間なので観れていないですが…。

 

大原重徳の墓

谷中霊園

大原重徳(おおはら しげとみ) 1801年(享和1)~1879年(明治12)

京都生まれの公卿。

黒船来航以来、攘夷論を主張し日米修好通商条約締結に反対した。

薩摩藩の島津久光が兵を引き連れ上洛した際には、薩摩兵に匿われ江戸へ赴き、幕政改革のため徳川慶喜を将軍後見職、前福井藩主の松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功している。

大政奉還後、徳川宗家の所領と徳川慶喜の処遇について話し合われた小御所会議にも参加した。

 

高橋お伝の墓

谷中霊園

高橋お伝(たかはし おでん) 1850年(嘉永3)~1879年(明治12)

上野国(群馬県)に生まれた殺人犯。

結婚して横浜に移ったが、旦那に先立たれてしまう。

その後、娼婦となり生計を立てていたが、ならず者と恋仲になったことによって、散財を極め困窮に苦しんだ。

富豪に借金の相談をしたところ『妾になれば肩代わりしてやる。』と言われたので仕方なしに褥を共にする。

しかし、富豪が約束を反故にしたため、怒り狂ったお伝は剃刀を手に裏切者の喉を割いて殺めた。

強盗殺人容疑で捕縛されている。

暫くは認めなかったが、後に自供し、東京監獄(市ヶ谷監獄)にて斬首刑に処された。

遺体は小塚原回向院に埋葬されている。

これだけ見ると運に見放された気の毒な女性にしか映らないけれども、仮名垣魯文や河竹黙阿弥などがお伝を毒婦とする作品を創作したことから現在のイメージが付いてしまった。

仮名垣魯文の世話で谷中霊園にお伝の墓が建てられたそうだ。

また、芝居でお伝の役を演じた歌舞伎役者達もこれに寄付したと云う。

 

終わりに

いちのまる
いちのまる

あれ?
もっとたくさんのお墓に参拝したつもりだったけど、意外と少なかったな…。

有名どころだと、政治家の鳩山一郎、俳優の森繁久彌、長谷川一夫、画家の横山大観、文学者の上田敏などの墓があるのだが、時間が足りず周れなかった。

また訪れる機会はあるだろうから追記していこうと思う。

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