雑司ヶ谷霊園を歩く!こちらに眠る先人たちをざっくりではあるが紹介しようと思う

雑司ヶ谷霊園

歴史上の偉人の墓が多くあると聞き入れ、雑司ヶ谷霊園へ赴いた。

当然の如く心霊スポットの噂が流布されているようだが、今回の私にとっては些末な事である。

このようなサイトを運営しているため、日頃から霊のことが頭から離れない私であるけれども、次々と眼前に現れる偉人達の墓を眺めている内にすっかり忘れてしまっていた。

青山霊園、谷中霊園の記事をご覧になった方は諄いと感じられるかもしれないが、ここもまた史跡だと思う。

いちのまる
いちのまる

それでは、雑司ヶ谷霊園に眠っている偉人、著名人を参拝した順に紹介するよ!

 

雑司ヶ谷霊園へのアクセス

最寄り駅は都電雑司ヶ谷駅、東京メトロ有楽町線の東池袋駅。

地図を見れば容易に辿り着くだろうから経路の詳細は省く。

 

 

島村抱月の墓

雑司ヶ谷霊園

島村抱月(しまむら ほうげつ) 1871年(明治4)~1918年(大正7)

島根県生まれの評論家、新劇指導者。

坪内逍遥が創刊した早稲田文学の記者となり文芸評論を発表。

後に坪内逍遥と文芸協会を結成している。

新劇の黎明期を造り上げた人物の一人である。

新劇とは
西欧流の近代的な演劇を目指した劇のこと。
狂言や歌舞伎などは旧劇と呼ばれる。

 

中浜万次郎(ジョン・万次郎)の墓

雑司ヶ谷霊園

中浜万次郎(なかはま まんじろう) 1827年(文政10)~1898年(明治31)

土佐国(高知県)出身の漁師、通訳、教師。

14歳の頃に海で遭難し無人島に漂着。

島で100日以上もの間、自給自足していたが、たまたま島に訪れたアメリカ合衆国の捕鯨船に救助された。

当時の日本は許可なく外国船は入れず、万次郎は渡米を余儀なくされている。

頭がよく皆に気に入られていたようで、アメリカ船員たちは万次郎に『ジョン・マン』という愛称を付けた。

アメリカ本土では寝る間も惜しみ英語を始めとする学問を修め、また文化の多様性や人種の違いなど、当時の一般的日本人が知る由も無かった経験を積んでいった。

凡そ10年後に故郷へ戻り、土佐藩では武士の身分を与えられ藩校の教授に任命された。

黒船来航後、アメリカの事情に聡い万次郎は、幕府から重宝され旗本の身分と中浜の苗字を授かっている。

詳細は割愛するが、激動の時代の最先端で活躍していた万次郎は、その能力もさることながら幅広い人脈を持っていたため、政治家の道を進められたけれども、余り興味を示さず教師の道を志したと云う。

 

竹久夢二の墓

雑司ヶ谷霊園

竹久夢二(たけひさ ゆめじ) 1884年(明治17)~1934年(昭和9)

岡山県生まれの画家。

ここに彼の絵を載せることは出来ないので、気になる方はgoogleの画像検索をしてみるとよい。

一度は観たことのあるような美人画が見つかるであろう。

 

夏目漱石の墓

雑司ヶ谷霊園

夏目漱石(なつめ そうせき) 1867年(慶応3)~1916年(大正5)

武蔵国(東京都)に生まれた小説家。

もはや説明の必要は無い程の著名人である。

いちのまる
いちのまる

夏目漱石の1000円札好きでした。

代表著作に『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こころ』などがある。

小説家としてはかなりの遅咲きで38だか39歳の時に処女作の『吾輩は猫である』が発表されている。

荻野吟子の墓

雑司ヶ谷霊園

荻野吟子(おぎの ぎんこ) 1851年(嘉永4)~1913年(大正2)

武蔵国(埼玉県)出身の女医、女性運動家。

石碑に”日本女医第一号荻野吟子抄”と刻まれていた。

医師を志した理由が中々に興味深い。

女遊びに没頭する夫から淋病を移され思う事あり離婚。

上京し産婦人科で治療を受けるが、当時は男性の医者しかおらず彼女は診察で屈辱を感じたと云う。

同じ様な思いをした、これからするだろう多くの女性を救うため立ち上がったのだ。

 

サトウ・ハチローの墓

雑司ヶ谷霊園

サトウ・ハチロー 1903年(明治36)~1973年(昭和48)

東京生まれの詩人、作家。

童謡『ちいさい秋みつけた』の作詞者。

母親をテーマにした詩を得意とした詩人のようだ。

まだ、彼の作品を読んだことがないので、見掛けたら手に取ってみようと思う。

 

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の墓

雑司ヶ谷霊園

小泉八雲(こいずみ やくも) 1850年~1904年(明治37)

ギリシア生まれの日本民俗学者。

出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。

心霊好きであれば是非知っておいて欲しい人物だ。

小泉八雲の墓を詣でるために雑司ヶ谷霊園に赴いたと言ってもよいかもしれない。

日本独特の文化を外国人の視点から記した当時としては稀有な作品を残している。

いちのまる
いちのまる

小泉八雲の怪談は現在でも語られ続けている伝説や幽霊たちが紹介されているよ。
是非、一度読んでみて下さいね!

 

大塚楠緒子の墓

雑司ヶ谷霊園

大塚楠緒子(おおつか くすおこ) 1875年(明治8)~1910年(明治43)

東京生まれの才色兼備な歌人。

夏目漱石が密かに恋心を抱いていたと噂されている。

35の若さで亡くなった楠緒子に漱石は”あるほどの菊投げ入れよ棺の中”と送っている。

 

大下藤次郎の墓

雑司ヶ谷霊園

大下藤次郎(おおした とうじろう) 1870年(明治3)~1911年(明治44)

東京出身の水彩画家。

私は絵の良し悪しがさっぱりわからない。

名前は覚えたので、何処かで見かけたとき、思い出されるだろう。

 

羽仁五郎の墓

雑司ヶ谷霊園

羽仁五郎(はに ごろう) 1901年(明治34)~1983年(昭和58)

群馬県桐生市出身のマルクス主義の歴史家。

国立国会図書館法の前文にある”国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される”は当時衆議院議員を務めていた羽仁五郎の提案による文言だと云われている。

戦前は軍国主義に抵抗し2度身柄を拘束されている。

思想云々は難解であるし、間違いなく冗長になるので割愛。

 

二代目・大川橋蔵の墓

雑司ヶ谷霊園

大川橋蔵(おおかわ はしぞう) 1929年(昭和4)~1984年(昭和59)

東京生まれの歌舞伎役者、俳優。

若い人でもテレビ時代劇【銭形平次】の人と言われれば顔が浮かぶ方もいるのではないだろうか?

18年間もの間、銭形平次役を演じてきた大川橋蔵は、病苦に苛まれ最終回の数ヶ月後に亡くなっている。

55歳の若さであった。

 

泉鏡花の墓

雑司ヶ谷霊園

泉鏡花(いずみ きょうか) 1873年(明治6)~1939年(昭和14)

石川県に生まれた小説家。

まだ、泉鏡花の小説を読んでいないので、語れない。

愛読する谷崎潤一郎の【文章読本】に数回名前が登場していたから、とても気になっている。

本を読む時間が限られているため、思うように進まないが、近いうちに彼の作品も読む予定。

東條英機の墓

雑司ヶ谷霊園

東條英機(とうじょう ひでき) 1884年(明治17)~1948年(昭和23)

東京出身の軍人、内閣総理大臣(第40代)。

第二次世界大戦後、東京裁判で戦争責任を問われA級戦犯となり、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で絞首刑に処された。

東條英機に対して悪い印象をお持ちの方が多いのではなかろうか?

wikipediaでも何でもよいから、彼に対して中立的なものを読んでみることをお勧めする。

圧倒的な悪人は別として、良いところ悪いところを兼ね備えた一般的な人間であるように思える。

あまりにもデリケートな事なので、これ以上は深入りしない。

 

岩瀬忠震の墓

雑司ヶ谷霊園

岩瀬忠震(いわせ ただなり) 1818年(文政1)~1861年(文久1)

江戸時代末期の幕臣、外交官。

伊達政宗の子孫らしい。

時の老中首座・阿部正弘に能力を買われ外国奉行にまで出世した。

徳川家の家督問題で一橋派(徳川慶喜)に属したため、井伊直弼らと対立し左遷され、失意のまま亡くなったと云う。

 

永井荷風の墓

雑司ヶ谷霊園

永井荷風(ながい かふう) 1879年(明治12)~1959年(昭和34)

東京生まれの小説家。

谷崎潤一郎を見出した人物として知っていたが、作品はまだ読んでいない。

何れは読むことになるだろうから、そうしたら追記しようかと思っている。

 

小栗忠順の墓

雑司ヶ谷霊園

小栗忠順(おぐり ただまさ) 1827年(文政10)~1868年(慶応4)

江戸末期の幕臣。

小栗上野介の名前で広く知られている。

物怖じせずハッキリ物申すタイプだったらしく疎む者も少なくなかったが、能力は非常に高く外国奉行、勘定奉行などを務めた。

戊辰戦争前期、忠順は新政府に対して徹底抗戦を主張したけれども、幕府は恭順策を採用し江戸城の無血開城が成った。

その後、恭順に異を唱えた旧幕府軍は東北、北海道で新政府軍と矛を交え敗北したが、小栗忠順は『当主が最早戦う気が無いのだから、そこに大義名分は無い。』と上野国(群馬県)に隠遁した。

しかし、新幕府軍に捕らえられ取り調べも無く斬首された。

 

金田一京助の墓

雑司ヶ谷霊園

金田一京助(きんだいち きょうすけ) 1882年(明治15)~1971年(昭和46)

岩手県出身の言語学者。

アイヌ語の研究に没頭する人生を送った。

石川啄木を支えた人としても知られている。

私の中では国語辞典の人というイメージが強い。

 

終わりに

雑司ヶ谷霊園

雑司ヶ谷霊園の片隅に柵に囲まれた石碑が何棟か安置されている。

ここには遺族が引き取りを拒んだ死刑囚の骨壺が収められた納骨堂がある。

赦されぬ過ちを犯した人々であっても、死を以て償った後にはせめて安らかに眠って欲しいという人間の複雑な感情があるように思えた。

なんとも物悲しい雰囲気であった。

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