関東大震災の復興事業の一環で穿たれた大原隧道

大原隧道

横浜市南区の清水ヶ丘を貫く大原隧道。

1923年(大正12)に発生した関東大震災から5年後の1928年(昭和3)に復興事業の一環で水道本管の敷設を目的として竣工されたトンネルである。

現在も地下には水道管が通っていて活用されている。

延長254m、高さ3.62m、幅2.44m。

当初は水道局員しか入れなかったが、周辺の開発に従って人口が増えだすと、その利便性が認められ一般の人々も通過出来るようになった。

 

大原隧道へのアクセス

大原隧道

最寄駅は京浜急行本線の南太田駅か井土ヶ谷駅。

両駅から徒歩で15分程の場所にある。

トンネル上部の清水ヶ丘公園に駐車場があるので、自動車の方が楽に辿り着けると思う。

 

 

大原隧道と心霊

大原隧道

大原隧道の幽霊話について詳しく調査されているサイトを見つけたのでURLを添付しておく。

今は蛍光灯で煌々と照らされているが、昔は僅かな光源しかなく薄闇が何とも不気味であったと云う。その時の印象が未だに尾を引いているのだと思われる。

トンネルの長さは254mで短いトンネルの部類に入るけれど、同じ程度の長さを持つ自動車用のトンネルと比べると随分長く歩いたように感じた。圧迫感がそう思わせるのかもしれない。

通っていて恐怖の感情は全く湧かなかったが、波型の鉄板で覆われた内壁の影響か、吸い込まれてしまいそうな不思議な感覚に襲われる。

 

大原隧道

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1944/10/14(昭19)撮影)

1945年(昭和20)5月29日、米軍が横浜市に無差別空爆を行い8000人以上の死者を出した。これを横浜大空襲と呼ぶ。

大変不謹慎な話だと思うが、大原隧道が心霊スポットとして語られる根拠の中に第二次世界大戦で戦災に巻き込まれた方々の遺体をトンネル付近に集め置いたというものがある。

横浜大空襲の被害区域を載せている資料と現在の地図を照らし合わせて見る限り大原隧道の上部は空襲の被害に遭っていないようだ。

引用した空中写真の通りトンネルの上部は学校(旧・横浜高等商業学校)と一面の畑であり空襲の対象にはならなかったと思われる。或いはトンネルを防空壕の代わりに使った可能性はあるかもしれない。

ただ隧道の南側の区画は隨分酷くやられたようである。少し場所は異なるかも知れないが『清水ヶ丘ヨリ日之出町方面ヲ臨ム』と題された空襲後の写真で完全な焼け野原となった横浜市南区を見る事が出来る。

東京大空襲で遺体が公園や広場に山積みにされたと云う話はよく聞くが、死者数こそ違えど似たような場面はあっただろう。

ただ、大原隧道は広場にあるわけでないし、清水ヶ丘はその名の通り小高い丘なので、わざわざここまで遺体が運ばれたとは考えにくい。

北側からトンネルを抜けた先に地獄絵図が待ち受けていたのは想像に難くないが…。

いちのまる
いちのまる

写真の赤で線を引いた部分が大原隧道です。
多少ズレているかもしれませんが、大体あっていると思います。

終わりに

大原隧道

このトンネルで直接的な事件や事故があった訳では無さそうである。

明治、大正に穿たれた史跡的な価値のある隧道の心霊スポット率が高いのは気のせいだろうか?開通直後からそのような噂が流れていたのか、それとも現在になってから流されたのか。難所の解消のために掘られた隧道は本来めでたいものであるべきはずなのに何故なのか。技術の無かった昔なら尚更である。

そういえば、近頃は薄暗いトンネルを歩いても何とも思わなくなったが、心霊スポットの探索を始めたばかりの頃はむやみやたらに怖がった記憶がある。

もしかしたら人間に根付いた本能が隧道の薄闇を畏怖しているのかもしれない。

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