本宿トンネルに現れると云う幽霊の噂と弥勒寺跡と延文五年の板碑の関係について

本宿トンネル

府中市の西府駅の南西にある本宿トンネル。

1977年(昭和52)に竣工されたボックスカルバートのトンネルで上部には数棟のマンションが立ち並ぶ。

どういう訳かここには幽霊が出ると云う噂が流れている。

何の変哲もないトンネルに見えるが、過去に何かあったのだろうか?

 

本宿トンネルにあったとされる弥勒寺

本宿トンネル

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1947/07/24(昭22)撮影)

 

本宿トンネル

出典:国土地理院/空中写真を切取・編集引用(1974/12/21(昭49)撮影)

本宿トンネルの上部、府中第五小学校とその東側には弥勒寺と呼ばれる寺院の境内が広がっていた。

正確な時期は不明であるが、明治時代に廃寺になってしまったそうだ。

江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿に弥勒寺の記載があったので引用する。

彌勒寺

境内除地一町一段四畝八歩 村ノ西北ニ在 石上山般若院ト號ス 新義眞言宗府中宿妙光院末本堂五間ニ九間本尊大日木ノ坐像長二尺許 開山開基詳ナラス

新編武蔵風土記稿巻之九十一 多磨郡之三 本宿村より

境内よけ地、一町一反四畝八歩(約3400坪)。本宿村の北西にある。

石上山般若院と号する。新義真言宗、府中宿の妙光院の末。本堂五間に九間、本尊は大日如来で木の坐像、長さ二尺ばかり。

開山や開基の詳細は分からない。

弥勒寺跡と延文五年の板碑について

本宿トンネル

本宿トンネルの北側坑門に『弥勒寺跡と延文五年の板碑』についての案内板と祠が安置されている。

これについても新編武蔵風土記稿に説明があったので紹介しよう。

此寺古ヘハ村ノ南ニアリ 其舊地ヨリ昔年古碑一基ヲ穿チ出セリ津戸勘解由左衛門尉菅原規嗣 延文五年七月十日子刻死去沙彌道嗣トアリ 又土中ヨリ得シモノトテ圖ノ如キ器アリ鉄器ニニタレトモ其器辨シカタシ緣ニ蔦ノ模樣微ニミエタリ

新編武蔵風土記稿巻之九十一 多磨郡之三 本宿村より

この寺、かつては村の南にあり、その旧地から大昔の古碑が一基発掘された。

『津戸勘解由左衛門尉菅原規嗣 延文五年七月十日子刻死去沙彌道嗣』とあり。

また土中より得たものとして図のような器がある。鉄器に似ているけれどその器は弁し難い。縁にツタの模様が微かに見える。

延文五年は西暦で表すと1360年。

津戸勘解由左衛門尉菅原規嗣は南北朝時代を生きた武蔵国の官人ではないかと考えられており、また菅原道真と縁の深い谷保天満宮に関する氏族の可能性もあると云われている。

江戸時代に編纂された書には『此寺古ヘハ村ノ南ニアリ 其舊地ヨリ昔年古碑一基ヲ穿チ出セリ』とある。『その旧地』とはどの辺りを指すのだろうか。この書き方だと板碑が発見された場所は移設される前の弥勒寺と読み取れる。

延文五年(一三六〇)銘の板碑は、この地にありました弥勒寺の跡より安永六年(一七七七)に発掘されました。本来は墳墓に伴うものであったとみられます。

現地案内板 弥勒寺跡と延文五年銘の板碑 由来より

本宿トンネル北側坑門の案内板には『この地にありました弥勒寺の跡』とある。

『旧地』と『この地』がイコールの関係なら何の問題もないのだが…。どうもそうとは思えない。

『弥勒寺跡と延文五年銘の板碑の案内板』『明治時代に廃寺となった弥勒寺』『新編武蔵風土記稿の村ノ西北ニ在』は殆ど同一の場所であろうが、新編武蔵風土記稿に続く『此寺古ヘハ村ノ南ニアリ』は『村ノ西北ニ在』に対してであり、となると村の南にあった旧・弥勒寺から板碑が発見されたことになりはしないか。

 

終わりに

本宿トンネル

本宿トンネルは上部に墓地があったため幽霊が出ると云われている。

航空写真を眺めて確認してみたものの、トンネル着工前に墓地があったかどうかまでは分からなかった。

発掘や掘削の際に人骨が出ているという話でもあるのだろうか?

明治時代に破却された寺院なので墓はあったに違いないけれども、流石に閉眼供養を行って改葬していると思いたい。

近いうちに府中市の図書館に行って弥勒寺跡について調べてみようかと思っている。何か新しい発見があれば追記するつもりだ。

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