畠山重忠の首塚へ!非業の死を遂げた重忠の最後の軌跡を吾妻鏡から振り返る

畠山重忠の首塚

元久二年(1205)六月小

廿一日 丁未晴 牧御方 請朝雅 去年爲畠山六郎被悪口 讒訴 被欝陶之 可誅重忠父子之由 内々有計議 先遠州被仰此事於相州 并式部丞時房主等兩客 被申云 重忠治承四年以來 専忠直間 右大將軍依鑒其志給 可奉護後胤之旨 被遣慇懃御詞者也 就中雖候于金吾將軍御方能員合戰之時參御方 抽其忠是併重御父子禮之故也 重忠者遠州聟也 而今以何憤 可令叛逆哉 若被弃度々勳功 被加楚忽誅戮者 定可及後悔 糺犯否之眞僞之後 有其沙汰不可停滯歟云々 遠州重不出詞兮 被起座 相州又退出給 備前守時親爲牧御方之使 追參相州御亭 申云 重忠謀叛事 令發覺 仍爲君爲世 漏申由於遠州之處 今貴殿被申之趣 偏相代重忠 欲被宥彼奸曲 是存繼母阿黨 爲被處吾於讒者歟云々 相州此上者 可在賢慮之由 被申之云々

吾妻鏡 第18巻より

元久2年(1205)6月21日丁未 晴れ

牧の御方、平賀朝雅の『去年、畠山重保の悪口を言われた』という陰口を受けて鬱陶しい気持ちでいたので、畠山重忠父子を誅殺してしまおうかと内々に企てた。一先ず北条時政様が北条義時様と時房様に仰られた。

二人は言った。『畠山重忠、治承4年以来より一途に忠誠を尽くしています。頼朝様はその志を他と比べてみて私の息子を守って欲しいと丁寧なお言葉でお願いしました。とりわけ頼家様の味方だったのに比企能員と合戦した時は私たちの味方をしてくれたのでその忠誠はひと際高い。これは親子の礼を重んじたからに他ならない。(畠山重忠は北条時政の婿)それなのに今、何をもって怒り反逆を企てるのか?もしも度々の手柄を捨てられ、軽はずみに殺す者は必ず後悔するでしょう。罪の有無をはっきりさせた後、決めるのでも遅くはありません。』北条時政様は重ねて言葉を言えず、席を立たれた。北条義時様も退出された。

大岡時親が牧の御方の使者として北条義時様の屋敷へ参り言った。『畠山重忠の謀反はもう発覚しています。よって将軍の為、世の中の為を思って北条時政様にお知らせしたところ、今貴方が申される様子は、ひたすらに畠山重忠に代わって彼の悪巧みを鎮め隠そうとしているように見えます。これは継母の一派が悪巧みをしているからと私を讒言者にするおつもりですか?』と。北条義時様は『こうなったからには賢明な考えをしよう』と申された。

北条義時と時房は畠山重忠の無実を訴える。

しかし牧の御方の讒言によって北条義時は止む無く重忠の誅殺を暗に承諾する。

 

畠山重忠の首塚

廿二日 戊申快晴 寅尅鎌倉中驚遽 軍兵竸走于由比濱之邊 可被誅謀叛之輩畠山六郎云々 依之奉仰 以佐久間太郎等 相囲重保之處 雖爭雌雄 不能破多勢 主從共被誅云々 又畠山次郎重忠參上之由 風聞之間 於路次可誅之由 有其沙汰 相州已下 被進發 軍兵悉以從之 仍少祗候于御所中之輩 于時問注所入道善信 相談于廣元朝臣云 朱雀院御時 將門 起於東國 雖隔數日之行程 於洛陽 猶有如固關之搆上 東西兩門 元土門也 始被建扉 矧重忠之莅來 近所歟 盍廻用意哉云々 依之遠州 候御前給 召上四百人之壯士 被固御所之四面次軍兵等進發 大手大將軍相州也 先陣葛西兵衛尉清重 後陣堺平次兵衛尉常秀 大須賀四郎胤信 國分五郎胤通 相馬五郎義胤 東平太重胤也 其外足利三郎義氏 小山左衛門尉朝政 三浦兵衛尉義村 同九郎胤義 長沼五郎宗政 結城七郎朝光 宇都宮彌三郎頼綱 筑後左衛門尉知重 安達藤九郎右衛門尉景盛 中條藤右衛門尉家長 同苅田平右衛門尉義季 狩野介入道 宇佐美右衛門尉祐茂 波多野小次郎忠綱 松田次郎有綱 土屋彌三郎宗光 河越次郎重時 同三郎重員 江戸太郎忠重 澁河武者所 小野寺太郎秀通 下河邊庄司行平 薗田七郎 并大井 品河 春日部 潮田 鹿嶋 小栗 行方之輩 兒玉 横山 金子 村山黨者共 皆揚鞭 關戸大將軍 式部丞時房 和田左衛門尉義盛也 前後軍兵 如雲霞兮 列山滿野 午尅著於武藏國二俣河 相逢于重忠云々 去十九日 出小衾郡菅屋舘 今著此澤也 折節舎弟長野三郎重淸在信濃國 同弟六郎重宗 在奥州 然間相從之輩 二男小次郎重秀 郎從本田次郎近常 榛澤六郎成清已下 百三十四騎 陣于鶴峯之麓 而重保今朝蒙誅之上 軍兵又襲來之由 於此所聞之 近常 成清等云 如聞者 討手不知幾千萬騎 吾衆更難敵件威勢 早退歸于本所 相待討手 可遂合戰云々 重忠云 其儀不可然 忘家忘親者 將軍本意也 随而重保被誅之後 不能顧本所 去正治之比 景時辭一宮舘出途中伏誅 似惜暫時之命 且又兼似有陰謀企 可耻賢察歟 尤可存後車之誡云々 爰襲來軍兵等 各懸意於先陣 欲貽譽於後代 其中 安達藤九郎右衛門尉景盛 引卒野田與一 加治次郎 飽間太郎 鶉見平次 玉村太郎 與藤次等畢 主從七騎 進先登取弓挾鏑 重忠見之 此金吾者 弓馬放遊舊友也 抜萬人赴一陣 何不感之哉 重秀對于彼 可輕命之由 加下知 仍挑戰及數反 加治次郎宗季已下 多以爲重忠 被誅 凡弓箭之戰 刀劔之諍 雖移尅 無其勝負之處 及申剋 愛甲三郎季隆之所發箭中重忠 年四十二 之身季隆 即取彼首 献相州之陣 尒之後 小次郎重秀 年廿三 母右衛門尉遠元女 并郎從等自殺之間 縡屬無爲云々 今日未尅 相州室 伊賀守朝光女 男子平産 左京兆是也

吾妻鏡 第18巻より

元久2年(1205)6月22日戊申 快晴

午前4時頃。鎌倉中が騒がしくなり、兵士達が由比ガ浜のあたりに競い走った。『謀叛をした輩、畠山重保を成敗するべし』云々。

これを聞いて佐久間等が重保を取り取り囲んだので争いになったけれども多勢に無勢。重保は部下と共に殺された。また畠山重忠が来ると噂が流れたため、道すがらで殺害すると決定した。北条義時様は出発された。兵士達はみなこれに従ったため御所の中の人々は少なかった。

時に三善康信が大江広元に相談して言うには『朱雀院の時代に平将門が東国で挙兵しましたね。数日かかるほど離れているにもかかわらず京都は固関の構えをしました。東と西の門に始めて扉を建てられました。畠山重忠は既に近くまで来ているだろう。何かしらの用意をしておかなければならないでしょう』と。こうして北条時政様にお願いして、400人の強者を呼び集め、御所の周りを固められた。そうしてから兵士達は出発した。

大将軍は北条義時様。

先陣は葛西清重、後陣は千葉常秀、大須賀胤信、国分胤通、相馬義胤、東重胤。

その他は足利義氏、小山朝政、三浦義村、胤義、長沼宗政、結城朝光、宇都宮頼綱、八田知重、安達景盛、中条家長、苅田義季、狩野介入道、宇佐美祐茂、波多野忠綱、松田有綱、土屋宗光、河越重時、重員、江戸忠重、渋河武者所、小野寺秀通、下河辺行平、薗田七郎、並びに大井、品河、春日部、潮田、鹿嶋、行方の者共。兒玉、横山、金子、村山党の者共、皆鞭を上げ出陣した。

関戸方面の大将軍は北条時房様、和田義盛。それらの兵士達は雲霞の如く山に列をなし野に満ちている。

正午、各々が二俣川で畠山重忠に相対した。

畠山重忠は先日19日に男衾郡の菅屋館を出て、今この河に着いた。そのとき舍弟の長野重清は信濃国にいて、同じく弟の重宗は奧州にいた。それゆえ従っているのは、次男の重秀、従者の本田近常、榛澤成清、以下134騎であった。

彼らは鶴ヶ峰の麓に陣を敷いた。そうして畠山重保が今朝殺された事、兵士達が攻めて来る事をここで聞いた。

近常、成清たちは言った。『聞くところによると、敵は幾千万いるか分かりません。私たちはその勢いに敵わないでしょう。早く本拠に退却し敵を待ち構え合戦に致しましょう。』

重忠は言った。『そうすべきではない。将軍の本意とは家を忘れ、親を忘れて戦うものだ。したがって重保が殺された後に本拠を顧みることはない。以前、正治の頃、梶原景時は一宮の館を去り、途中で滅ぼされた。それは一時の命を惜しんだようなものだ。また前から陰謀を企てていたように思われるのを恥ずべきで、先人の過ちを見て今を戒めるべきだ。』

ここに兵士達が襲い掛かって来た。

各々、意識を先陣にかけて名誉を後世に残そうと欲した。その中に安達景盛、野田与一、加世次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次らを引率した。主従七騎で先頭を進み、弓を取って鏑矢を挾んだ。

重忠は安達景盛を見て、この者は共に成長した旧友である。大勢の中を抜きんでて一番に私に向かってくる。感動せずにはいられない。畠山重秀は彼に対し、命がけでかかってこいと言い放った。

こうして数度に亘り戦いは及び、加治宗季以下多くの家臣が重忠に討たれた。弓や刀で争い時間が経っても決着は着かなかった。

しかし午後4時半過ぎ、愛甲季隆の放った矢が重忠の身体に当たった。季隆は即座に彼の首を取り、北条義時様の陣へ届けた。

その後、重秀並びに従者たちが自殺をしたので、ことは治まった。

今日の午前10時頃、義時様の妻が男の子を産んだ。

畠山重忠の最後の場面。吾妻鏡の描写は極めて劇的。最後の一文に味がある。

畠山重忠の首塚

廿三日 己酉晴 未尅 相州已下被歸參于鎌倉 遠州 被尋申戰場事 相州被申云 重忠弟親類大略以在他所 相從于戰場之者 僅百餘輩也 然者企謀及事已爲虚誕 若依讒訴 逢誅戮歟 太以不便 斬首持來于陣頭 見之不忘年來合眼之眤 悲涙難禁云々 遠州無被仰之旨云々 酉尅 鎌倉中又騒動 是三浦平六兵衛尉 重廻思慮 於經師谷口 謀兮討榛谷四郎重朝 同嫡男太郎重季 次郎秀重等也 稲毛入道 爲大河戸三郎被誅 子息小澤次郎重政者 宇佐美與一誅之 今度合戰之起 偏在彼重成法師之謀曲 所謂右衛門權佐朝政 於畠山次郎有遺恨之間 彼一族巧反逆之由 頻依讒申于牧御方 遠州室 遠州 潜被示合此事於稲毛之間 稲毛 變親族之好 當時鎌倉中 有兵起之由 就随本息于重忠 於途中逢不意之横死 人以莫不悲歎云々

吾妻鏡 第18巻より

元久2年(1205)6月23日己酉 晴れ

午後2時頃、北条義時様とその軍勢が鎌倉に帰られた。北条時政様が戦場の事を尋ねられた。

義時様が仰るには『畠山重忠の弟、親類の大方は他の場所にいて、戦場に従った者は僅か100人ちょっとでした。そういう訳で謀反を企てたという話は出鱈目で、貶めるために成敗されたのは余りに不憫でした。首が切られて陣に運ばれたとき、これを見て長年親しく顔を合わせてきた人たちは悲しみの涙を止められませんでした。』時政様はこれを聞いて何も言えなかった。

午後6時頃、鎌倉がまた騒がしくなった。

これ、三浦義村が深く考えを巡らし、経師谷入口で、榛谷重朝、重季、秀重を騙し討ちにしたからである。稲毛重成は大河戸行元に誅殺され、小澤重政は宇佐美与一が殺害した。

今回の合戦の原因は、稲毛重成の謀にあった。

要は平賀朝雅が畠山重忠に恨みがあったので、重忠の一族が反逆を企てていると、頻りに牧の御方(時政の妻)に告げ口した事によって、北条時政様がこっそりと稲毛重成と相談したところ、稲毛は親族だというのに重忠を裏切り『今、鎌倉中に挙兵する者がある』と重忠に手紙を出し、重忠は途中で突然の死を迎えた。

悲歎しない者は無かったと云う。

この事件によって鎌倉幕府が大きく揺れ動いた。

 

終わりに

畠山重忠の首塚

八日 癸亥 以畠山次郎重忠餘黨等所領 賜勳功之輩 尼御臺所 御計也將軍家御幼稚之間 如此云々

吾妻鏡 第18巻より

元久2年(1205)7月8日 癸亥

畠山重忠の仲間の所領は勲功のある者に与えられた。北条政子様の計らいであった。将軍の実朝様が子供のうちはこのようにするという事である。

その後、北条時政と牧の御方は源実朝を廃して平賀朝雅を将軍に擁立しようと企てたが失敗に終わり夫婦は鎌倉から追放、平賀朝雅は京都で誅殺された。

畠山重忠の首塚には幽霊が出ると云う。ここが古戦場だからだろうか。それとも重忠の無念の死に由来するものだろうか。古戦場が理由であるならば特に異論はないのだが、重忠の怨みが云々と言われると何だか釈然としない。

坂東武士の鑑と称えられる畠山重忠が化けて出てくるとはどうしても思えないのである。

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