茨城県の小幡城にまつわる心霊スポットの噂

小幡城

茨城県東茨城郡茨城町の小幡城跡。

石垣や城壁に囲まれた天守を愛でるのも良いけれど、小幡城のような純朴且つ実戦的な城郭を眺めるのも楽しい。

登城者は堀底道と呼ばれる切り立った空堀の底を通って郭や本丸を目指すことになる。空堀の深いところは10mくらいあるだろうか。高い崖に圧迫されつつ進んでいくので何だか心細くなっていく。地図を見るとそこまで複雑に入り組んでいるわけでもないのに迷路に迷い込んでしまったような気分に陥るのだ。

合戦では侵入して来た敵兵を土塁の上から弓や投石で迎え撃ったと云う。といってもここまで攻め込まれていたら援軍が控えていない限り籠城側の敗北は必至だったろうが。

ちょっと小幡城の歴史を振り返ってみよう。

 

小幡城の歴史

小幡城

小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(一四二〇年ごろ)に築いたという説と小田知重の三男光重が鎌倉時代(一二二〇年ごろ)に築いたという二説がある。

現地案内板より

どうやら築城に関しては確かな情報が残っていないらしい。

サンケイ新聞社の【茨城の城館:古城が語る栄枯の跡3】には『大掾義幹が1417年(応永24)に築城したと古書に記されている』といったことが書かれていた。原典が気になるので時間があるときに調べようかと思う。

【茨城町史・通史編】では『城郭の造りから考えて応永年間の築城とは考えにくく、戦国時代後期に築かれたのではないか』といった趣旨のことが書かれている。

後者の説については小田知重・光重父子を小幡と繋げる記述を新編常陸国誌で見つけたので引用しよう。

八田知重ノ第三子光重、邑ヲ小幡ニ食ム、因テ小幡氏ト稱ス、

新編常陸国誌 第八卷 故蹟 小幡故城より

八田(小田)知重は十三人の合議制(鎌倉幕府)の一端を担った八田知家の子供で、後の世に不死鳥を輩出する小田氏の祖である。

知重の息子・光重が小幡を領した際に城(館)を築いたのかもしれないということだろう。

 

小鶴原の戦い

小幡城

按增井正宗寺ノ江戸系圖ニ、茨城郡小幡城主小幡長門守ハ八田知重ノ後胤ニシテ、代々小田ノ支輔ナリ、或云、應永廿四年、江戸通房大掾清幹ヲ襲フ、時城主小幡長門守江戸氏ニ屬シタリシガ、文明十三年、不快ノコトアリ、又小田氏ニ屬ス、通雅因テ五月五日小鶴原ニ陣シ、小幡ヲ撃ツ、小田成治、大掾常幹三千餘騎來リ援フ、小田方北條ノ兵死スル者六十余騎、長門遂ニ江戸氏ニ降ルト見ユ[正宗寺江戸系圖]

新編常陸国誌 第八卷 故蹟 小幡故城より

増井の正宗寺の江戸系図に、小幡城主の小幡長門守は八田知重の子孫で代々に亘って小田氏を支えてきた。

応永24年(1417)、江戸通房が大掾清幹を襲う。時の城主だった小幡長門守は江戸氏に属していたが、文明13年(1481)に不快に思うことがあり再び小田氏に属した。

因って江戸通雅は5月5日小鶴原に出陣し小幡を撃った。

小田成治、大掾常幹らの3000余騎が駆け付けたが、小田方北条の兵は60余騎戦死し、小幡長門守は遂に江戸氏に降ったと云う。

これは江戸氏と小田・大掾連合軍が争ったとされる小鶴原の戦い(茨城町小鶴)の場面。

この戦いによって江戸氏が小幡氏を押さえ南下するきっかけを得た。

 

江戸氏による小幡城の支配

小幡出雲守清良、天文元年八月朔日大洗明神ノ下ニテ打死、其靈祟リヲナスニヨリテ、神ニ祀リシトゾ

新編常陸国誌 第八卷 故蹟 小幡故城より

新編常陸国誌や水府志料の小幡城の項目には天文元年(1532)に江戸氏が小幡清良(義清?)を殺害したという描写が残されている。

大洗磯前神社内にある清良神社には小幡清良の霊が祀られていると云う。

新編常陸国誌や水府志料などの古書は江戸時代中期に編纂されたものであり、史実かどうか疑問視されている部分があるそうだ。

情報の出典は不明だが【茨城の城館:古城が語る栄枯の跡3】では『小幡義清の曾孫・中務大輔春信が大洗磯前神社に参拝したとき、江戸忠通の軍勢に襲われ殺害された。城主を失った小幡氏は止む無く城を明け渡し、一族は佐竹氏を頼り江戸氏に報復を誓った』といったことが記されている。

 

小幡城の最期

現在の城域約十二㌶が整備されたのは、元亀~天正年間(一五七〇年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。

(中略)

天正十八年(一五九○年)十二月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城をうばわれ、府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。

現地案内板より

いち早く豊臣秀吉に恭順の意を示した佐竹氏が小田原征伐に乗じて大掾氏や江戸氏を攻略した。

小幡城はこの時の落城、或いは佐竹氏が秋田へ移封した際に廃城となったと考えられている。

 

終わりに

小幡城

小幡城が落城の際にお姫様が家宝の金の鳥を抱え井戸に身を投じたという話が伝わっている。

茨城町教育委員会が現地に設置した説明板にこの話が書かれていることから察するに、史実かどうかは別として姫の悲話は古くから当地に言い伝えられてきたのだろう。

この悲劇が心霊の噂に発展したことは想像に難くない。

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