
信州・真田氏は優秀な人間を多く輩出しています。
真田氏の礎を築いた真田幸隆。武田信玄に仕え、武田二十四将の一人に数えられました。
幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は武勇に優れ、信玄に高く評価されていたと伝わります。彼らも父親と同じく武田二十四将に選ばれています。信綱はとにかく戦が強く前線で活躍しましたが、長篠の戦いで討ち死にしてしまいました。昌輝は武田信玄に『わが両眼なり』といわせたほどの傑物で、兄・信綱と共に出陣することが多かったそうです。彼も長篠の戦いで戦死しています。
そして三男、徳川キラーこと真田昌幸。主家の武田氏が滅亡した後に独立。周囲は後北条、上杉、徳川といった強大な大名ばかり。いつ攻め滅ぼされてもおかしくない状況のなか御家を存続させ、真田の名を後世まで繋げた人物です。
昌幸の二人の息子、信之と信繁(幸村)。この二人も真田氏を語るうえで外せません。
今回は真田昌幸が築城した長野県にある『上田城』に行ってきました。真田氏の歴史に少し触れようと思っているのですが、事細かく紹介するとキリがないので、関ヶ原の戦い(1600年)以降について解説します。
それでは参りましょう。
関ヶ原の戦いと真田氏の選択

2016年(平成28)度のNHK大河ドラマは、真田信繁(幸村)が主人公の『真田丸』でした。
信繁(幸村)は真田昌幸の次男として生まれました。1600年の関ヶ原の戦いでは、以下のように親兄弟が敵味方に分かれて戦うことになります。
- 西軍(毛利輝元&石田三成側):真田昌幸、真田信繁(幸村)父子
- 東軍(徳川家康側) :真田信之(信繁の兄)
昌幸、信繁(幸村)父子は上田城に立て籠もり、徳川秀忠(後の徳川二代将軍)率いる大軍を翻弄して追い返しています。しかし、関ヶ原の本戦で西軍が大敗してしまったため、戦後に二人は高野山(九度山)へ流罪となりました。死罪になっても不思議ではない状況でしたが、信之とその義父である本多忠勝が助命嘆願したことにより生きながらえました。
信之は自身の領地であった上野国沼田を安堵され、さらに父の旧領である信濃国上田を手に入れ、真田家を存続させています。
大坂の陣と真田幸村(信繁)の活躍

真田昌幸は1611年(慶長16)に高野山(九度山)で病死しています。信繁(幸村)は出家し俗世から離れたといいます。
しかし、徳川家と豊臣家の関係が悪化して衝突が避けられない状態になると、豊臣家は各地から浪人を集め軍備を整え始めます。このときに信繁(幸村)にも声が掛かり、これに呼応しました。
こうして『大坂冬の陣(1614年)』が始まります。
真田丸の戦いと幸村の最期

大坂冬の陣で信繁(幸村)は大坂城の一角に脆弱な箇所を発見。そこに『真田丸』という出城を築いて徳川軍を挑発しつつ損害を与えました。この戦いで真田信繁(幸村)の名は一躍有名になったといいます。
豊臣軍の奮戦により徳川軍に多大なダメージを与えたものの、和議を結んだため真田丸は取壊されてしまいました。
翌年、徳川家康が豊臣方に難癖をつけて『大坂夏の陣(1615年)』が始まります。
信繁(幸村)はこの戦いにも参加しています。玉砕覚悟で家康の本陣に突撃し、多くの将兵を討ち取ったといいます。一説には家康の首元に手が届くほど追い詰めたともいわれています。
しかし、多勢に無勢。圧倒的な兵力差に追い詰められた信繁(幸村)は、とうとう討ち取られてしまいました。享年49。
上田城跡公園へのアクセス
車で上田城跡へ向かうアクセス方法は以下の通りです。
- 上信越自動車道『上田菅平IC』を降りて左方向へ下ります
- 国道144号線を道なりに進み、国道18号線と合流します
- 合流地点から5~7分ほど進むと『上田城跡公園入口』の信号がありますので左折します
- 『天神2丁目』の信号を右折し、少し進むと『上田城跡駐車場』に到着します




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