著名な心霊スポットの歴史を振り返ると、過去に残酷な事件や無慈悲な災害が発生している可能性が高い。
勿論、理由無き心霊スポットも多いのであるが、そういう場所では多かれ少なかれ人間が死んでいる。
ここ松井田城跡は古戦場である。
それでは松井田城跡の風景と歴史を振り返ってみよう。
松井田城跡へのアクセス
高崎方面から国道18号線(松井田バイパス)を走らせ松井田の信号まで向かう。
少し進んだ右側に松井田城跡の看板があるので右折。
曲がりくねった登り坂を進むと、やがて案内板が見えてくる。
看板に従い登りきると小さい駐車場がある。
松井田城について
松井田城は碓氷川と九十九川に挟まれた標高250~400mの尾根に築かれた大規模な山城である。
築城は1560年ぐらいと云われているが詳細は不明。
松井田城の前身となる城があったという情報もあるけれど、真偽の程は分からない。
戦国時代には甲斐武田氏と後北条氏の間に挟まれ、右往左往していた安中氏が一帯を治めていた。
ご丁寧に看板が多く建てられているが、今一どれのことを指しているのか判りにくい。
訪問時は草が生い茂り、ほぼ未整備の状態であった。
本丸にあった虚空蔵菩薩。
松井田城についての細かい経緯は歴史や城の専門他のサイトにお任せするとして、ここが心霊スポットとして扱われる根拠について話を進めよう。
1582年(天正10)、後北条家臣の大道寺政繁が松井田城の城代となる。
政繁はいずれ訪れる戦いのため、城の改修を進め堅城を造り上げた。
1590年(天正18)、豊臣秀吉が打倒・後北条の旗を掲げ大軍を率いて小田原へ進撃。
いわゆる小田原征伐ってやつです。
当然の如く松井田城は攻略対象となり豊臣軍別働隊の北国勢(前田利家や上杉景勝)、信州勢(真田昌幸とその息子たち)に攻め立てられた。
別働隊は約35000人。対する松井田城籠城兵は約2000人だったと云う。
松井田城攻防戦は同年の3月28日~4月20日まで行われ、最後は大道寺政繁が降伏する形で終幕する。
10倍以上の兵、百戦錬磨の大将たちに攻め入られ約1ヵ月も耐えたのは称賛に価すると思う。
降伏した大道寺政繁は豊臣軍の先導役をさせられ、前線でかつての味方と戦う羽目になった。
政繁は秀吉のことが憎くて堪らなかったことであろう。
といっても、それが耐えられなくて自刃する武将が大勢いる訳だが、政繁は生きる道を選んだ。
そして、同年7月5日に小田原開城、後北条氏は滅亡。
豊臣秀吉の天下統一が成った。(厳密に言えば東北勢もいるのだが、最大の敵は後北条だった)
終わりに
大道寺政繁の末路が悲惨極まりない。
泣く泣く味方を殺しながら先導役を務め豊臣軍に多大な貢献を果たしたのにも拘らず切腹を命じられてしまった。
無念の一言だろう。
もし霊が存在して成仏という概念があるならば、未練を残した彼は極楽浄土には行けず何処かを彷徨っているのかもしれない。
安中氏時代の合戦、そして小田原征伐に連なる松井田城の戦いで数多の命が無情にも失われていった。
無念の情が蠢く悲劇の地である。
コメント
群馬県の城跡にまつわる心霊スポットとなると、中之条町にある嵩山が知られています。
永禄9年(1566)頃、嵩山に籠った上杉方の斎藤氏は武田氏に攻め込まれ陥落しました。
その時、「加沢記(戦国北上州の史料)」によれば、嵩山には落城時に山頂から飛び降りて絶命した斎藤城虎丸や付き人らの人骨が残っている、と記されています。実際に、山頂の天狗岩の直下には、人骨が集積された洞窟(骨穴)が存在するそうです。
ところが、現代になって実施された調査により、これらの人骨は、弥生時代の再葬墓のものであることが明らかになったそうです。
以上は、「戦国人」群馬県立歴史博物館編より。
剣刀太子王さん
こんばんは!
ネット上には挙げられていないようですが、如何にもという感じの場所ですね。
群馬に帰省して時間があれば訪れて見ようかと思います。