青の洞門と禅海和尚について!日本三大奇景の一つに選ばれる耶馬渓を眺める

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青の洞門

日本三大奇景の一つに選ばれる耶馬渓は大分県の主力観光スポットである。

中津市、山国川上流域の本耶馬渓には奇石が1kmに亘って連なる競秀峰、その直下に穿たれた青の洞門などの名勝が存在し、特に秋、紅葉の季節に抜群のパフォーマンスを見せる。

さて、本題。

どうやら本耶馬渓の青の洞門に幽霊が出るという噂があるらしい。いわゆる心霊スポットだ。

ゆう
ゆう

何か理由はあるのでしょうか?

では、青の洞門の歴史を遡ってみよう。

 

青の洞門の歴史

青の洞門

青の洞門は僧侶・禅海によって掘られたトンネルである。

青の洞門の『青』の由来は色ではなく土地の名前から来ているそうだ。

かつてこの辺りは交通の難所として知られていた。

聳え立つ岩壁に僅かな足場を設け、鎖を頼りに命がけで渡っていた。

多くの人馬が犠牲になったと云う。

 

青の洞門

享保年間に江戸の僧禅海がこの崎嶇艱難の状を見て、卽ち大誓願を發して、石を鑿ち路を通じ、以て沒溺の患を救はんと欲し、直ちに槌鑿を執つて進んだ(山陰鑿道碑銘並序)。

日本仏教と社会事業 第五章 江戸時代の四より

享保20年(1735)、禅海和尚はこの難所の惨状を目にして誓願を立てた。

『岩壁を穿ち!道を切り開き!!人々を救う!!!』

ノミと鎚を手に持ち掘削を開始した。

掘り始めた当初は住民から狂人がいると怪しまれたり笑われたりしたそうだ。

 

青の洞門

 

禅海和尚は托鉢を行いながら資金を調達し、その金で石工を雇い入れている。

馬鹿にしていた住民らも和尚の誓願の偉大さに感化され、次第に資金の提供をする者や掘削作業を手伝う者も現れた。

寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は『人は4文、牛馬は8文』の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。

中津耶馬渓観光協会 青の洞門より

人が集まれば作業のペースは早まるが、道具や食料の調達に金が掛かる。

托鉢や寄付だけでは賄いきれず、止む負えず通行料を徴収したのだと思いたい。

 

青の洞門

終に三十余年の星霜を経、かの岩をきりうがつこと三所、すべての長さ百間、竪横二丈四方、洞中幽邃にして、太陽明通せざれば、処々岩に窓をうがち、これ仙宮にも通ふらんと思ふばかりなり。(『梅園全集』下巻)

春雨物語『捨石丸』と青の洞門より孫引き

明和元年(1764)、凡そ30年掛けて洞門は完成した。

三浦梅園の書によると青の洞門は岩を三ヶ所掘削し、長さは百間(約180m)、縦横は二丈(約6m)、隧道内に光を取り入れるため所々に窓を掘ったと記されている。

中津耶馬渓観光協会・青の洞門のHPには『全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。』とある。

完成時、禅海和尚の年齢は70歳を超えていた。

 

青の洞門

小説家・菊池寛は青の洞門と禅海和尚をモデルにした『恩讐の彼方に』という小説を書いている。

青空文庫『恩讐の彼方に』で公開されているので是非読んでいただきたい。

れい
れい

短編なのでサクッと読めるからオススメだよ!

菊池寛は『切通し禅海坊敵討之目録』と呼ばれる書をヒントに小説を書いたと思われる。
この書は禅海和尚の人生をよりドラマティックに描いているが、伝説の域を出ないと云われている。

 

心霊スポットの噂の原因?

青の洞門

さて、なぜ青の洞門が心霊スポットなのか?

禅海和尚が洞門を造ったきっかけが原因だと、私は思う。

それなりの数の人馬が鎖渡から転落して亡くなっているのは間違いない。

過去の新聞を調べると、現代でも山国川で水難事故が発生していることがわかった。

山国川はとても澄んだ清流なので、夏場になると川遊びに多くの観光客が訪れる。

こういうところではどんなに注意しても事故が発生してしまう。

ただ、青の洞門付近で水難事故が発生したかどうかは不明である。

 

終わりに

青の洞門

心霊スポット云々よりも青の洞門がどのようにして造られたのかを知って欲しくてこの記事を書いた。

30年もの間、ノミと槌を持ち、ただひたすら掘り続けた禅海和尚の大誓願は人々に勇気と感動を与えた。

耶馬渓に訪れたら禅海和尚を偲びつつ青の洞門へ赴こう。

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