忍城は和田竜の歴史小説『のぼうの城』の舞台になったことで一躍有名になった城である。
この小説は2012年(平成24)に映画化されており人気を博した。
第36回日本アカデミー賞で多くの優秀賞を受賞している。
物語そのものが良く出来ているので全体を通して面白い。特にクライマックスで成田長親に扮した野村萬斎が見せる狂気じみた田楽踊りは一見に値する。
映画の宣伝はこれ位にして本題に入ろう。
もう数年前の事であるが、私は『のぼうの城』に触発され、忍城にとても興味を抱いた。
現地に訪れ、書籍やネットで情報を集めることにした。
純粋に歴史を知りたかっただけなのだが、ネットサーフィングをしていると忍城を心霊スポットとして紹介するサイトがあった。
何か根拠はあるのか?
今回は忍城の歴史を紹介すると共に、心霊の噂の根拠を考えてみようと思う。
忍城の歴史
忍城は室町時代後期に当地の豪族である成田氏によって築城されたと伝わる。
此忍の城と申すは、大手長野の出張より、本丸迄の間に、堀を掘り壘を築き、木戸を構ふる事、都て九重、其中に大沼二箇所、殆んど湖に異ならず。
城の南北も又大沼にて、水漫々と湛へれば、船なくては渡り難し。
上州治亂記 卷之十九 忍城の要害より
城の南北もまた大沼で、水が満ちれば、船が無いと渡るのは難しい。
利根川と荒川に挟まれた湿地帯に工夫を凝らして忍城は築かれた。
この天然の要害は幾度かの戦いに巻き込まれているが、落城することはなかった。
忍城を巡っての争いで特に有名な合戦は、1590年の小田原征伐である。
豊臣秀吉は四国と九州を平定した後、関東地方の攻略に乗り出す。
敵は後北条氏。小田原城を本拠とする大大名である。
秀吉は小田原城を包囲しつつ関東の各地に点在する支城の攻略も進めた。
その中に忍城はあった。
忍城攻めの総大将は石田三成で、その傘下には大谷吉継、真田昌幸などの名立たる武将が揃っていた。
石田三成は忍城一帯を見渡せる丸墓山古墳に陣を敷き攻略に臨んだ。
豊臣秀吉の指示で水攻めで忍城を攻城することになった。
この時に築かれた堤防を石田堤と言い、今でもその名残が史跡として残っている。
総延長28kmもの堤を築いたものの、最後は決壊して失敗に終わったと伝わる。
この失敗が『石田三成=戦下手』のイメージの一因となっているのは間違いないだろう。
しかし、現実は少々異なるようだ。
忍城の水攻めは石田三成が考えた戦略ではなく、豊臣秀吉の命令に従っただけと云うのだ。
他にも堤防は決壊していなかった。石田三成は水攻めに乗り気でなかった。など様々な検証が為されている。
urlは貼らないが、ネット上にはかなり詳しく研究されているサイトがあるので、気になる方は『忍城 石田三成書状』などと調べてみるといいだろう。
何故、心霊スポット?
忍城を巡る戦いで攻守ともに多くの兵士が戦死したのは間違いないだろう。
ただ、群雄割拠の戦国時代では当たり前のように合戦が行われた。
忍城に限ったことではない。
そもそも忍城を心霊スポットとして紹介しているサイトはかなり少ない。
本当に心霊スポットの噂があるのかと疑ってしまう程だ。
終わりに
私は幽霊が見えない人なので、忍城が心霊スポットなのか判断することは出来ないし、するつもりもない。
(こんなサイトを運営していてあれだが、霊の存在自体に懐疑的である。というか居ようが居まいがどっちでもいい。)
もし、この辺りが地元の方がいらっしゃったらお聞きしたい。
忍城に幽霊が出るという噂はあるのですか?
と。
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