『前橋藩刑場跡供養塔及び道しるべ』を眺めてきた。石碑に彫られている内容を紹介するよ!

前橋藩刑場跡供養塔

群馬県道2号線、天川大島町のすぐ近くにある前橋藩刑場跡供養塔へ!

江戸時代にあった前橋藩の処刑場の名残である。(実際の刑場はここから北に約100m離れた場所にあった。)

・正面
『南無妙法蓮華経』
・右側面
『照生死長夜大燈明』
・左側面
『切元品無明大利劔』
・裏面
天保十二年辛丑 九月吉祥日 日戒(花押)

と彫られ、台座の下には世話人68人の名前がある。

供養塔の揮毫は養行寺の住職・行妙。書家として知られていた人物とのこと。

南無妙法蓮華経は『法華経の教えに帰依する』。

照生死長夜大燈明は『生死の長夜を照らす大灯明』。

切元品無明大利劔は『元品の無明を切り裂く利剣』。

法華経は『輪廻転生の闇を繰り返す我々凡夫を照らしてくれる智慧の光』であり『煩悩(無知)の根源を切り裂く大剣(仏法)』であるという意味かな?

詳しくないが、調べる限り『照生死長夜大燈明』と『切元品無明大利劔』は日蓮大聖人の御言葉だと思われる。

間違っていたら申し訳ない。違っていたらこっそりと教えていただければ幸いである。

天保十二年は西暦1841年。

天保年間に飢饉が発生し民衆は困窮極め、農民の楽しみであった祭などの催し物も中止されてしまった。

鬱憤の溜まった民衆らは暴走し、怒りの矛を資産家に向け打ち壊しを行ったと云う。

そのような時期にこの供養塔は建立された。

1749年(寛延2)に姫路から松平朝矩が前橋に入封したが、以前から前橋城は利根川の浸食に悩まされており朝矩は前橋城を放棄して川越に移っている。
こうして前橋は川越藩の分領となった。
再び前橋藩が復活するのは幕末になってからである。(その後、廃藩置県ですぐに無くなってしまうのだが…。)
供養塔が建てられた1841年(天保12)時点では川越藩の飛び地領であった。

 

前橋藩刑場跡供養塔

供養塔の左にある『道しるべ』には、

・正面
南無阿弥陀佛
・正面右側
寶暦五歳
・正面左側
亥十月吉日
・正面下
右江戸みち
左あ徒満道

南無阿弥陀仏は『阿弥陀仏に帰依する』。

熱心に南無阿弥陀仏と唱え続ければ、阿弥陀如来のおられる極楽浄土へ行けると説いたのが、浄土宗の法然上人。全てを阿弥陀如来に委ね、思い立ったときに念仏を唱えれば救われるよ!と説いたのが親鸞聖人。(親鸞死後、浄土真宗が開かれた。)

宝暦五歳は西暦1755年。最後のあ徒満道は『あづまみち』と読むらしい。

広報紙によると、

あ徒満道とは、古代、都と地方を結ぶ官道(国道)であった『東山道』の名残と推定されている。

1992年(平成4)8/1 広報まえばし より

とのこと。

 

前橋藩刑場跡供養塔

江戸時代、前橋藩には立石(藤岡)、諏訪町裏、真政等の刑場があったが、そのうちの天河原刑場は主に極刑である磔刑が行われた。

前橋藩刑場跡供養塔ならびに道しるべ 旧案内板より

この刑場では磔刑が行われたらしい。

磔刑に関しては以前訪問した東京の鈴ヶ森刑場跡の記事で触れているので気になる方はご覧頂きたい。なかなか残酷な処刑方法なので閲覧注意!

前橋市史に前橋藩の刑罰記録が残っている。

私は直接確認出来なかったけれど『江戸時代の刑罰施設(閉鎖)』で閲読出来る。

 

終わりに

前橋藩刑場跡供養塔

県道2号線沿いに生える松並木

江戸時代に藩主が参勤交代に使用した江戸道の名残で、黒松の樹齢はおよそ300年だと云われている。

計74本の松が植えられていたが、道路拡張工事により一部は倒壊の危険性があるため伐採され、残った50本は移植された。かつては黒松によって光が遮られていたためとても暗い道だった。刑場跡と近いことも相まって松並木にも心霊スポットの噂があった記憶が残っている。

今回、訪問出来なかったが、この付近には泪橋と呼ばれる刑場に関係する場所もあるようだ。

時間があれば探してみたいと思っている。

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