回顧すれば。彼の山たる。古來决して此の如きの禿山にではあらざりし。
八年以前の小瀧は。日光透らず。月影洩れざる。晝尚暗き。鬱々森々たる深山にてありしとは。
現に銅山局員某の余輩に語りたる所也。
小瀧旣に然り。本山言を俟たざる也。
明治28年発行 足尾銅山に關する調査意見より
足尾銅山で本格的に銅が採掘されるようになったのは江戸時代の初期だと云われている。
1610年(慶長15)、露出した銅が発見されて以降、幕府の代官所が足尾に置かれた。
幕府は足尾から平塚河岸(現・伊勢崎市)を繋ぐ銅山街道を設け、利根川を利用して銅を江戸に運んだ。
江戸時代は地表から鉱石を目がけて無計画に掘り進む『狸掘り』が行われていたそうだ。
坑内支保無しに採掘していたのだから常に危険と隣り合わせである。
精銅は銭貨や瓦などに使用され、また海外に輸出されることもあったと云う。
江戸時代初期から中期にかけて足尾銅山は幕府の稼ぎ頭であった。
しかし、江戸時代中期以降になると生産量が減少し始め、閉山状態に追い込まれている。
この状況は幕府が滅び明治政府になってからも暫く続いた。
民間に払い下げられた後、幾人かの経営者が銅山再建に挑むが思うようにいかなかった。
そんななか現れたのが古河市兵衛である。
1877年(明治10)、実業家の古河市兵衛が足尾銅山を買収した。
閉山状態の銅山から採れる銅は僅少で運営は困難を極めた。
しかし、1881年(明治14)に有望鉱脈を掘り当てたことにより状況は一変。
これをきっかけに古河市兵衛は銅山の近代化を進め更なる躍進を遂げることになる。
ダイナマイト使用や水力発電による電気配給によって掘削スピード、輸送速度が改善され、次々と精銅が生産されるようになった。
歴史が進むにつれ技術改革が進み市兵衛の懐は潤ったが、別の問題が浮上する。
足尾鉱毒事件である。
工場から排出される煙によって山々は死んでいった。
草木に支えられていた大地は脆く崩れ落ちた。
動物たちは居場所を失い足尾の山から去っていった。
製錬までの過程に生まれた廃棄物は川に流され、美しい清流から魚たちは消えた。
やがて毒は川を伝い下流域に被害を及ぼした。
精魂込めて作り上げた農作物が何故か枯れてしまう。
洪水が起これば広範囲に亘って毒が撒き散らされる。
毒により不作となった住民は貧困に喘いだ。
また、鉱毒による中毒で亡くなった人もいたと云う。
政治家の田中正造は渡良瀬川流域の公害の状況を憂いて立ち上がった。
田中正造の主導の下、自身は政治的手段で、被害農民たちは押出し(集団で押し寄せ請願する)という形で政府と戦うことにした。
数千人に膨れ上がった農民らは6度に亘って押出しを試みている。
4度目の押出しは川俣事件と呼ばれる大騷動になり、多くの農民が逮捕された。(後に起訴無効の判決が下り釈放されている)
川俣事件公判であくびをしたという理由から田中正造は罰せられ服役している。
政府もそれなりの対策を講じた。ところが公害は収まらなかった。
釈放後、田中正造は議員を辞職。しかし鉱毒被害の訴えは続けている。
1901年(明治34)、田中正造は東京日比谷で明治天皇に直訴を試みる。
必死の覚悟で及んだ直訴は失敗に終わった…。が、直訴状が新聞に取り上げられ、足尾鉱毒事件が世間に広く知られることになった。
田中正造は拘束されたが、即日釈放されている。奇跡である。
その後も演説などの活動を続け、私財を投げ打ち鉱毒問題を追及した。
1913年(大正2)、田中正造は亡くなった。無一文だったと云う。
第二次世界大戦などで下火になったものの鉱毒被害を訴える活動は続いた。
令和になった今も足尾鉱毒事件はまだ終わっていない。
完全復興はいつの日になるだろうか?
終わりに
足尾銅山には心霊スポットの噂がある。
根拠を考えてみたが、これまで話してきた鉱毒事件はあまり関係が無いように思う。
明治初期の銅山での労働環境は劣悪で多くの者が不満を募らせた。
1907年(明治40)、待遇改善を訴える坑夫らが暴動を起こし、見張り所や鉱山事務所を襲撃。
軍隊が出動する事態にまで発展し、関係者が逮捕されている。(足尾暴動事件)
劣悪な環境に加え、坑内では崩落が発生し死亡事故が相次いだ。
粉塵を日頃から吸い続けた坑夫は珪肺症に罹り死んでいった。
足尾銅山は数多の人柱の上に成り立っていたと言ってもいいかもしれない。
これが心霊スポットと云われる由縁になっているのではないだろうか?
ただ、本当に心霊の噂があるのか疑問もある。というのも私の親族に足尾出身者がいるのだけれども、そんな噂は一切聞いたことがないからだ。
心霊サイトに紹介されていたので記事にしたが、web上で囁かれているだけなのかもしれない。
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