寛永ノ頃日々千駄ノ萱ヲ苅取シカハ村名起由ヲ云
既ニ正保改ニ千駄萱村ト記シ延寶中ノ水帳ニハ千駄之萱村ト記ス
元禄國圖改シニハ今ノ如ク千駄ヶ谷ト載ス新編武蔵風土記稿 巻之十一 豊島郡之三より
↑は千駄ヶ谷(東京都渋谷区)の地名の由来である。
寛永の頃(1624~1645)、毎日のように大量の茅が刈り取られる光景から村の名前が起こったと云う。
“千駄”の『駄』は馬に荷物を背負わせるの意で、千頭の荷物を積んだ馬、この場合の荷物は茅であり、つまり溢れんばかりの茅が採れる場所だった、という事になる。
茅は耐水性に優れ屋根の原料となり、また家畜の飼料、畑の肥料なども使われる大変貴重な資源でもあった。
現在の千駄ヶ谷からは想像出来ない景色が広がっていたのですね。
さて、本題に入ろう。
千駄ヶ谷トンネルの噂
千駄ヶ谷二丁目、仙寿院交差点と神宮前交差点の間に位置する千駄ヶ谷トンネルには心霊の噂が流れているらしい。
“化けトン”と言えば、ひと気の無い薄気味悪い所を想像するが、千駄ヶ谷のトンネルは味気のないボックスカルバートである。
このような現代的なトンネルに如何なる曰くがあるのだろうか?
トンネルの上に…
結論から申し上げると千駄ヶ谷トンネルの真上に寺院墓地が広がっていることが心霊の噂の根拠となっている。
墓地を所有しているのは法雲山仙寿院東漸寺。
これは一般的に仙寿院と呼ばれ、徳川家康の側室・お萬の方の発願により一源院日遥上人を開山として1644年(正保1)に創建された寺院である。
水戸黄門のお婆さんにあたる人だね!
当時の仙寿院一帯は桜の名所として知られ春になると大勢の人々で賑わったそうだ。
江戸時代が終わると、徳川家に縁のあった当寺は新たな気風によって衰退し、かつての威光は減じていった。
1885年(明治18)の火災で全焼、後に再興されるが昭和の大戦で再び焼失している。
東京オリンピックと千駄ヶ谷トンネル
墓地の下にトンネルが通っている理由は1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックにある。
1981年(昭和56)の読売新聞に千駄ヶ谷トンネルについて記載されていたので要約しよう。
ここは代々木のプールと国立競技場を結ぶ重要な道路であり、『オリンピックには勝てなかった』と云う。
墓地の全面移転も考えたが、檀家に元士族が多く移転は猛反発された。
コンクリートの上に土を被せ何とか墓としての機能は果たしている。
トンネルに掛かるツタは風景が余りにも殺風景だったため寺院が植えたそうだ。
とのこと。
神や幽霊を信じていない人にとっても墓地が真上にあるトンネルを通るのは気分が悪かろう。
心霊の噂が起こったのも必然だったのではないかと思う。
トンネル近くの新国立競技場と人骨
東京五輪のため2019年11月に竣工された新国立競技場の発掘調査で、187体の人骨が発見された。
遺骨は老若男女様々で、この場所に寺が移転してきた1732年(享保17)以降に埋葬されたものとされ、1919年(大正8)に再び移転する際、改葬せずそのまま放置されたのではないかと云われている。
なんてこったい…。
四ツ谷絵図(1849-1862刊)を切り抜き引用
地図右端の朱で塗られた千寿院が仙寿院だと思う。
新国立競技場は仙寿院から見て北東直ぐの位置にあり、この地図の北方角は左方向なので、北東は左斜め上になる。
地図上に寂光寺、立法寺、順正寺が見えるから、これらの寺院墓地に埋葬された方々の遺骨が今回発見されたのだろうか?
もう少し詳らかに調査すれば判明するだろうが、しんどいのでこの辺にしておく。
終わりに
仙寿院にあった男爵・都筑馨六の墓。
筆者と同郷なので気になって拝んできた。
1861年(万延2)に群馬県で生まれた政治家で、長州藩の偉人・井上馨の女婿であるそうだ。
詳しいことは分からないが、内政外交共に手腕を発揮した人物であるらしい。
どちらかと言えば故郷は好きでないが、同郷の偉人を発見すると若干の嬉しさを感じる。なぜだろうか?
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